マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス
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マクシミリアーノ・エルナンデス・マルティネス(Maximiliano Hernández Martínez 1882年10月21日 - 1966年4月15日)は、エルサルバドルの軍人、政治家。クーデターで大統領(在職1931年~1934年、1935~1944年)に就任して13年にわたる独裁政治をした。経済政策では一定の評価を受けているが、魔術や神秘主義に傾倒するなど奇行も有名であり同国史上、最も毀誉褒貶のある人物である。
[編集] 生涯
先住民の血を強く引く非摘出子としてサンサルバドルで生まれた。幼年時代を貧困のうちに過ごしグアテマラの士官学校に入学。卒業後エルサルバドル政府軍に入隊し1906年には少佐、1919年には37歳の若さで准将に昇進した。
1931年には、副大統領兼国防相となる。当時は世界恐慌によりコーヒーの価格が暴落し、国家収入は4年前の半分、労働者の賃金は半分以下になリ財政も崩壊していた。政府は、腐敗を繰り返したため、これを非難する共産党が急速に影響力を拡大。アルトゥーロ・アラウホ大統領はマルティネスを後任大統領に指名。マルティネスは翌年1月の地方選挙を公約する一方、ただちに左翼勢力に対する弾圧を開始した。1932年1月に地方選挙を実施。共産党候補が大量当選するが。政府はこれを認めなかった。
共産党は22日の一斉蜂起を予定するも事前に発覚する。共産党指導者は一斉逮捕され指導者を失ったサンタアナ、アウアチャパン、ソンソナテの農民はマチェテを持って武装蜂起。その後軍部による報復で、ソンソナテ県イサルコ地方を中心に3万人が犠牲となる大虐殺がおこなわれた。こうして13年にわたるマルティネスの独裁の時代が始まった。
この時代にコーヒー保護法を制定して道路建設などの公共事業を積極的に進め、インフラはかなり整備された。汚職もあまり見られなかったし外国からの借款も抑制し、国内通貨であるコロンの価値も比較的安定していた。
また、1934年5月19日には、建国を宣言した満州国を日本に次いで全世界で最初に満州国を「承認」した。日本人はこの知られざる南米の小国に俄然好感を抱きはじめ、大阪朝日新聞の特派員はサンサルバドルを訪問し「あたかも哲学教授」のような大統領に謁見して、「日本の国情にそっくりだ/勤勉、礼儀よく髪も黒く地震国まで似通う」という見出しの記事を綴った。日本郵船は早速中米航路を新設することを決定。しかし、日米が開戦した時、エルサルバドルは米英を基軸とする「反枢軸連合国」側の一員に加わった。
1944年4月、自然発生的ゼネストにより経済がマヒし、知識人、学生がストを支持したことから広範な反政府運動に発展したため5月に辞任して亡命。その後、ホンジュラスの自分の農場で争議中の労働者により暗殺された。享年84。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: エルサルバドルの人物 | 独裁者 | 1882年生 | 1966年没