ヤマノシラギク
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性別 | 牝 |
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毛色 | 栗毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1979年2月25日 |
死没 | 1999年9月27日 |
父 | オーバーサーブ |
母 | ホンマルクイン |
生産 | グランド牧場 |
生国 | 日本(北海道新冠町) |
馬主 | 奥村啓二 |
調教師 | 大久保正陽(栗東) |
競走成績 | 56戦7勝 |
獲得賞金 | 2億7657万3400円 |
京都大賞典を二度の制覇など重賞4勝。中央競馬の10箇所の競馬場全てで出走した馬として知られている。現在でいうGⅠレースでの勝利はないものの、牡馬相手の古馬重賞でもたびたび好走をした80年代を代表する牝馬の一頭である。
父はオーバーサーブ、母はホンマルクイン。ファミリーラインは小岩井農場の基礎輸入牝馬の一頭であるビューチフルドリーマー系である。
馬齢は全て旧表記(数え年)にて表記する
目次 |
[編集] 戦績
1981年6月、札幌競馬場での3歳新馬戦でデビューし2戦目で勝ち上がった。その後はなかなか勝てないものの、京都3歳ステークスでは同世代最強の呼び声が高かったサルノキングと好勝負を繰り広げての2着となり、また阪神3歳ステークスでも2着に入り翌年の牝馬クラシック戦線の主役候補として期待された。
4歳になり2連勝して桜花賞の制覇の期待も大きかったが、故障が判明して桜花賞を回避した。故障から復帰してオークスやエリザベス女王杯には出走したものの、上位入着はできなかった。
5歳になってからは長期の休養を取ることなく小倉、新潟、中京などのローカル重賞の制覇を狙って転戦するものの、なかなか勝利を収められなかった。秋になってようやく京都大賞典を制した。その後も休みなく各競馬場を転戦して、その当時の重賞には欠かせない名脇役となっていった。札幌、函館、新潟、福島、中山、東京、中京、京都、阪神、小倉からなる中央競馬の10箇所の競馬場全てで出走を果たしたことでも話題となった。戦積も牝馬としてはなかなかのもので、6歳で小倉大賞典、7歳で再び京都大賞典を制した。
1985年12月、7歳で有馬記念に出走したのを最後に現役を引退した。
ヤマノシラギクというとローカル重賞のイメージが強いが、実は京都競馬場や阪神競馬場で強いメンバーがいるなかで好走する一方、ローカル開催では、中央開催よりもメンバーが劣るレースでもあまり勝っていない。それゆえローカル重賞では結構人気を集めては勝てず、そして人気を落として京都で大穴を出すという馬になっていた。 またローカル開催が活動の中心ということもなく、天皇賞と宝塚記念は3回挑戦し、ジャパンカップと有馬記念にも1回出走している。
[編集] 女旅役者
ほとんど休養を取ることなく各地を遠征し、顔に非常に太い流星(馬の顔に入る白い毛の線)が入っているために顔が白くそれが白粉を連想させ、またヤマノシラギクという名前の印象から、旅役者をイメージさせる馬だった。京都育ちの女役者が旅また旅の生活で全国各地で興行の舞台に立ち、たまに京都に戻ってきて淀の舞台で見事な演技で馴染みの観客を魅了する、ヤマノシラギクはそんなふうに擬人化されて語られたことが多かった。
[編集] 主な勝ち鞍
4歳(1982年) 4歳牝馬ステークス
5歳(1983年) 京都大賞典
6歳(1984年) 小倉大賞典
7歳(1985年) 京都大賞典
[編集] 血統表
ヤマノシラギクの血統 ニジンスキー系(ノーザンダンサー系) | |||
父
*オーバーサーブ Over Served 1972 鹿毛 |
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
Nautial Miss 1960 黒鹿毛 |
Sailor | Eight Thirty | |
Flota | |||
Appian | Roman | ||
Miss Aubrey | |||
母
ホンマルクイン 1966 鹿毛 |
*ソロナウェー Solonaway 1946 鹿毛 |
Solferino | Fairway |
Sol Speranza | |||
Anyway | Grand Glacier | ||
The Widow Murphy | |||
クリゾノ 1950 栗毛 |
トシシロ | *ダイオライト Diolite | |
月城 | |||
クリススム | トキノチカラ | ||
ブライトン F-No.12 |