サルノキング
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性別 | 牡 |
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毛色 | 鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1979年3月22日 |
死没 | 不明 |
父 | テュデナム |
母 | シギサン |
生産 | 八木牧場 |
生国 | 日本(北海道新冠町) |
馬主 | 猿丸進晤、中村和夫、橋本善吉 |
調教師 | 中村好夫(栗東)→本郷重彦(美浦) |
競走成績 | 8戦6勝 |
獲得賞金 | 8287万5200円 |
サルノキングは日本の競走馬。近親にはカブラヤオー、ダイタクヘリオスなどがいる。サルノキング事件で名高い。後に種牡馬となる。
[編集] 戦績
デビュー戦こそ2番人気の3着と惜敗するも、その後4連勝(レコード勝ちも1回ある)。暮れの目標であった阪神3歳ステークス(現・阪神ジュベナイルフィリーズ。当時は栗東所属の2歳馬(現表記)のチャンピオン決定戦であった)は直前の体調不良で出走取消となるもその後も東京4歳ステークス(現・共同通信杯)、弥生賞と連勝を重ねる。出走取消はレースをしていないと見なされるのでここまで6連勝を含む7戦6勝という実に順調な出世ぶりで、特に弥生賞に関しては主戦騎手の田原成貴が「こんなの攻め馬だよ。」とレース後に発言するほどの楽な内容の勝利であった。かくしてこの世代の馬の中では抜けた力の持ち主、クラシック戦線の主役として問題のスプリングステークスに臨むこととなった。
問題のスプリングステークスではサルノキングは当然のように1番人気に支持された。2番人気は「華麗なる一族」出身で当時史上最高金額で取引された話題馬・ハギノカムイオーである。スタートしてまもなく、ハギノカムイオーはいつものように先頭に立った。ところが、サルノキングは何故か、ブービーの馬からさらに20馬身ほど離れた最後方をたった1頭で進む。サルノキングはこれまで先行するレースをしていたので、これは大方の予想に反する展開となった。しかも、まだ中盤の第2コーナーからサルノキングは突然スパートをして上がっていき、一気に先行集団に取り付いた。最後の直線に入るとサルノキングは失速し、楽なペースで逃げることのできたハギノカムイオーはそのまま逃げ切った。サルノキングは4着を確保したとはいえ、誰の目にも不可解極まるレース振りでの敗戦となった。
これが世に言うサルノキング事件(当時話題となっていた日航羽田沖事故から「サルノキング逆噴射事件」とも呼ばれる)で、このレースで重度の骨折を負ってしまったサルノキングはそのまま引退に追い込まれることになってしまった。
[編集] 引退後
引退後は種牡馬となったものの、札幌日経オープンでダート路線に活路を見出す前のホクトベガの2着に食い込んで小波乱を演出したモガミサルノなどを輩出するに止まった。