ローマ建国紀元
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ローマ建国紀元(ろーまけんこくきげん、原綴り(ラテン語)Ab urbe condita(AUCまたはa.u.c.またはAVC))は、ロムルスが古代ローマを建国したとされる紀元前753年を元年とする紀年法である。通称はロムルス暦、ロムルス紀元など。
西暦2000年は、ロムルス暦2753年となる。
[編集] 概要
元年は、紀元前1世紀のローマ人ウァッロ (Marcus Terentius Varro) によって推定された、都市国家ローマの建国年である。ローマ帝国では、紀年法として使われた幾つかの方法のうちの一つ。現代では使われず、後にキリスト暦など他の記年法にとって代わられた。
伝説と、ウァッロの推定によれば、紀元前753年4月21日、都市国家ローマの初代ロムルス王が即位した。これを基準とするものだが、後の計算により、ローマ建国の年は紀元前753年ではなかったとされるが、ひとまず、この記年法を使うときには、基準点を紀元前753年にとることになっている。
具体的なローマ建国の年は、ウェッレイウス・パテルクルス(Velleius Paterculus, 『ローマ史』VIII, 5)によれば、イリオス陥落(紀元前1182年、推定)の437年後であり、紀元前745年となる。また、ローマ建国の年に、ローマで日食が観測されたとされており、天文学的に逆算すると、この日食は紀元前745年6月25日に起きたものであり、欠け始めが16時38分で、食の最大は17時28分、かけ終わりは18時16分で、欠けの最大は50.3%であった。
ローマ建国紀元は、ローマ建国直後から使われていたものではなく、いきなり、ローマが共和制になった年を"245 ab urbe condita"と呼ぶことによって開始された。また、ウァッロよりも前はこの記年法が使われていないことにも注意する必要がある。
さらに別の研究によれば、シルウィア王女がローマの初代王ロムルスとその弟レムスの双子を身篭った日は、エジプト暦で紀元前763年Choiac月23日(6月15日に相当)の日食の日であった。このとき、ローマ地方では午前6:49に欠けはじめ、7:47に最大となり、8:51に終了しているはずである。欠けの最大は62.5%であった。エジプト暦でThothの月22日にロムルスとレムスは生まれた。Thothの月は、現代の暦に直すと3月2日に始まっており、双子は現代風には紀元前762年3月22日(換算)生まれとなる。ロムルスは前述のとおり、4月21日に即位し、その年、2ヶ月が経たないうちに、ローマで日食が観測された。ロムルスは54年を生き、紀元前709年7月17日(換算)、非常に大きな日食の起きた日に、ローマから消えた。この日の日食は、午前5時04分に始まり、6時57分に終わった。食の最大は、93.7%であった。このときの日付は、ロムルス本人が制定したローマ暦(ロムルス暦)ではQuintilis(7月)の7日であった。(これらの日付と時刻は、ブダペストプラネタリウムのAurel Ponori-Thewrewk教授の計算による)
これらの計算は、ロムルスが18歳でローマを建国したという伝承などにかみ合い、ローマ建国年は紀元前745年となる。プルタルコスが、ロムルスの統治は、37年間に渡って続き、7月5日に終わったと述べていることなどにもほぼ一致する。これらはほぼすべて、フロルス、キケロ、ディオ・カッシウス、ハリカルナッソスのディオニュシオスらの記述にほぼ一致する。また、前述の3つの日食の正確な計算から、紀元前746年から紀元前709年までの間、ローマはロムルス王によって統治されていたことも明らかである。
[編集] 関連項目
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