三浦明敬
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三浦 明敬(みうら あきひろ、明暦4年3月22日(1658年4月24日) - 享保10年3月10日(1725年4月22日))は、下野壬生藩の第3代藩主。日向延岡藩主。三河刈谷藩の初代藩主。父は壬生藩の第2代藩主・三浦安次(明敬は長男)。母は織田氏。正室は鍋島光茂の養女(鍋島直能の娘)。継室に田中満吉の娘。側室に三枝氏。他にも多数いたと言われる。子に三浦重次、三浦明喬、三浦義理。官位は従五位下、壱岐守。
幼名は平五郎。天和2年(1682年)、父の死去により家督を継いで壬生藩主となる。貞享3年(1686年)11月には奏者番となったが、翌年に勤務怠慢が原因で処罰された。元禄2年(1689年)に若年寄となる。元禄5年(1692年)2月23日、3000石加増の2万3000石で延岡藩主として移封される。しかし前の藩主の有馬氏のために起こった一揆の余波に苦しんだとされている。
正徳2年(1712年)7月に刈谷藩主として移封される。享保9年(1724年)2月に三男の三浦明喬に家督を譲って隠居し、翌年3月10日に死去した。享年68。法号:貞誉寿松允石竜雲院。
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