上井覚兼
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上井 覚兼(うわい かくけん(もしくは うわい さとかぬ)、1545年3月23日(天文14年2月11日) - 1589年7月24日(天正17年6月12日))は、島津氏の家臣。父は大隅国上井領主であった上井薫兼。
上井氏は祖父の代から島津氏の家臣を努めていた家柄で、覚兼は1559年の元服と共に島津貴久に仕えた。そして、日向国侵攻や大隅国侵攻で活躍している。
貴久死後は島津義久の側近として仕え、1576年からは家老となって島津氏の政治を取り仕切った。そして日向国の宮崎城守備を命じられ、行政面で活躍している。また、その一方で大友氏攻めなどにも従軍して功を立てた。
1587年、島津家久に従って豊臣秀長の軍勢と戦ったが、敗れて家久と共に降伏する。そしてその後は伊集院に隠棲した。
なお、覚兼は優れた教養人でもあり、彼が記した『上井覚兼日記』や『伊勢守心得書』などは島津氏の首脳陣の政策決定などの内情を知る上で、大変貴重な史料であると今日まで高く評価されている。