上杉重定
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上杉 重定(うえすぎ しげさだ、1720年8月9日(享保5年7月6日) - 1798年5月11日(寛政10年3月26日))は、出羽国米沢藩の第8代藩主。5代藩主・上杉吉憲の四男で、6代藩主・上杉宗憲と7代藩主・上杉宗房の弟に当たる。官位は従四位下、大炊頭、侍従。正室は尾張藩主・徳川宗勝の娘。子に上杉勝熙(長男)、上杉治広(次男)、上杉勝定(三男)、上杉定興(四男)、娘(上杉治憲正室)らがいる。
兄・宗房の後を受けて藩主となった。この頃、米沢藩では減封が相次いで15万石になっていたにも関わらず、藩士召し放ちを行なわなかった。しかも宝暦5年(1755年)には藩内を大凶作が襲った。しかも重定はあまり政務に興味を示さずに華美を好んだため、財政はさらに逼迫して破綻寸前となり、藩政は藩主・重定の信任を得ていた清野内膳や森平右衛門らによって牛耳られていた。これらは、領民の反発を買っていたため、森平右衛門は竹俣当綱の一派によって斬殺、粛清されることになる。それでも、余りに藩財政が苦しかったため、明和元年(1764年)には義父の宗勝に幕府に藩土返上の上領主を辞めるとまで言い出したと言う。
このような財政逼迫の情況の中、宝暦10年(1760年)に養嗣子として迎えた上杉治憲(鷹山)に明和4年(1767年)、家督を譲って隠居した。そして、森平右衛門を斬殺した竹俣当綱らを重用した名君・鷹山の改革により米沢藩は再建されることとなる。
因みに隠居後は余り政治に口出ししなかったが、鷹山が厳しい倹約令を出して家臣団から凄まじい反発を受けた(あるときは反対派の家臣芋川延親が鷹山の袴の裾を掴んだらしい)ことがあるが、これに重定は、「養子とはいえ我が子に無礼である」と激怒し、改革の抵抗勢力であった色部照長や千坂高敦を蟄居閉門、須田満主、芋川延親を切腹にするなどの厳しい処罰、改革のブレーン細井平洲に嫉妬し抵抗勢力のブレーンであった藁科立澤も斬首(七家騒動、または七家訴状事件)に処した鷹山の処置を支持し、鷹山の改革に影ながら協力しているのである。
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