尾張藩
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尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張と美濃及び信濃の一部を治めた親藩で最大の藩。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。徳川御三家筆頭で、表高は61万9千500石。
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[編集] 藩史
尾張は関ヶ原の戦いのとき清洲城主福島正則(24万石)が領有していた。戦功により福島氏が安芸(広島藩)に移されると、代わって徳川家康の四男松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)するが、1607年忠吉が嗣子なく没して廃される。代わって甲府から家康の九男徳川義直が53万9千石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って尾張藩が成立した。藩領は随時加増され二代藩主光友のとき61万9千石に達した。
享保の改革期の七代藩主宗春は8代将軍吉宗に反抗し、幕府の倹約政策に逆らって積極経済策をとったので城下町名古屋は江戸以上に繁栄したが、放漫財政となって財政は破綻し、宗春は幕府によって隠居させられた。十代藩主~十三代藩主は御三卿や将軍家から養子が入るようになり、義直の系統は絶えた。
支藩高須藩から本家を継いだ幕末の十四代藩主徳川慶恕(後の慶勝)は公武合体派の重鎮として活躍し、第一次長州征伐の総督に立てられたが、隠居を命ぜられ、幕末の尾張藩政は混乱した。慶勝は鳥羽・伏見の戦い後、藩論を倒幕に決定し御三家のひとつでありながら徳川宗家と対決することとなる。1870年(明治3年)に尾張藩は高須藩を吸収したが廃藩置県により名古屋県になり、さらに愛知県に編入された。
[編集] 歴代藩主一覧
[編集] 徳川家(尾張徳川家)
代 | 名 | よみ | 官位・官職 | 就封 | 在任期間 | 前藩主との続柄・備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 義直 | よしなお | 従二位 権大納言・参議 |
慶長12年-慶安3年 1607年 - 1650年 |
徳川家康 9男 | |
2 | 光友 | みつとも | 従二位 権大納言・参議 |
遺領相続 | 慶安3年 - 元禄6年 1650年 - 1693年 |
先代の長男 |
3 | 綱誠 | つなのぶ | 従三位 権中納言・参議 |
家督相続 | 元禄6年 - 元禄12年 1693年 - 1699年 |
先代の長男 |
4 | 吉通 | よしみち | 従三位 権中納言・参議 |
遺領相続 | 元禄12年 - 正徳3年 1699年 - 1713年 |
先代の9男 |
5 | 五郎太 | ごろうた | 無官 (死後、従三位・参議追贈) |
遺領相続 | 正徳3年(7月 - 10月) 1713年 |
先代の長男 |
6 | 継友 | つぐとも | 従三位 権中納言・参議 |
遺領相続 | 正徳3年 - 享保15年 1713年 - 1730年 |
先代の叔父 (3代綱誠の11男) 養子 |
7 | 宗春 | むねはる | 従三位 権中納言・参議 |
遺領相続 | 享保15年 - 元文4年 1730年 - 1739年 |
先代の弟 (3代綱誠の19男) 養子 |
8 | 宗勝 | むねかつ | 従三位 権中納言・参議 |
遺領相続 | 元文4年 - 宝暦11年 1739年 - 1761年 |
2代光友の孫 (はじめ支藩の高須藩主) 養子 |
9 | 宗睦 | むねちか | 従二位 権大納言・参議 |
遺領相続 | 宝暦11年 - 寛政11年 1761年 - 1799年 |
先代の2男 |
10 | 斉朝 | なりとも | 正二位 権大納言・参議 |
遺領相続 | 寛政11年 - 文政10年 1799年 - 1827年 |
将軍家斉の甥 養子 |
11 | 斉温 | なりはる | 従二位 権大納言・参議 |
家督相続 | 文政10年 - 天保10年 1827年 - 1839年 |
先代の従兄弟 (将軍家斉の19男) 養子 |
12 | 斉荘 | なりたか | 従二位 権大納言・参議 |
家督相続 | 天保10年 - 弘化2年 1839年 - 1845年 |
先代の兄 (将軍家斉の12男) 養子 |
13 | 慶臧 | よしつぐ | 従三位 権中納言・参議 |
遺領相続 | 弘化2年 - 嘉永2年 1845年 - 1849年 |
御三卿田安斉匡の7男 養子 |
14 | 慶恕 | よしくみ | 正三位 権中納言・参議 |
遺領相続 | 嘉永2年 - 安政5年 1849年 - 1858年 |
支藩高須藩松平義建2男 養子 |
15 | 茂徳 | もちなが | 従二位 権大納言・参議 |
家督相続 | 安政5年 - 文久3年 1858年 - 1863年 |
先代の弟 (支藩高須藩松平義建5男) 養子 |
16 | 義宜 | よしのり | 従三位 左近衛中将・参議 |
家督相続 | 文久3年 - 明治2年 1863年 - 1869年 |
先代の甥 (14代慶恕の3男) 養子 |
17 | 慶勝 | よしかつ | 従二位 権中納言・参議 |
家督相続 | 明治2年 - 1869年 - |
14代藩主慶恕が再承 |
[編集] 藩校
- 明倫堂(現・愛知県立明和高等学校)
[編集] 支藩
[編集] 梁川松平家
- 義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主・徳川右衛門督光友の子
- 義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
- 義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
- 通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川右衛門督綱誠の子 後、尾張藩主・徳川宗春となる
[編集] 高須松平家
- 高須藩(たかすはん)3万石(岐阜県海津郡、1700年 - 1870年) - 1870年に尾張本藩と合併された。なお、10代藩主義建の男子は合わせて6人が高須藩を含めた諸藩の藩主の地位に就いた(尾張藩主・徳川慶勝(2男)、浜田藩主・松平武成(3男)、尾張藩主・徳川茂徳(5男、最初は11代高須藩主松平義比)会津藩主・松平容保(7男)、桑名藩主・松平定敬(9男)、13代高須藩主松平義勇(10男))。
- 義行(よしゆき)〔従四位下、摂津守・少将〕 尾張藩主・徳川右衛門督光友の子
- 義孝(よしたか)〔従四位下、摂津守・少将・侍従〕
- 義淳(よしあつ)〔従四位下、左少将・侍従〕→尾張藩主・徳川宗勝となる。
- 義敏(よしとし)〔従四位下、中務大輔・少将〕
- 義柄(よしとも)〔従四位下、摂津守・侍従〕→ 尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行となる。
- 義裕(よしひろ)〔従四位下、摂津守・侍従〕
- 勝当(かつまさ)〔従四位上、弾正大弼・少将・侍従〕
- 義居(よしすえ)〔従四位下、摂津守・侍従〕
- 義和(よしより)〔従四位下、左少将・中務大輔・侍従〕
- 義建(よしたつ)〔従四位下、摂津守・左少将・侍従〕
- 義比(よしちか)〔従四位下、摂津守・左少将・侍従〕→尾張藩主・徳川茂徳となる。
- 義端(よしまさ)〔早世のため官位官職無し〕
- 義勇(よしたけ)〔従五位〕
- 義生(よしなり)
[編集] 附家老
[編集] 重臣
- 渡辺家渡辺半蔵家(寺部城1万石)(愛知県豊田市)
- 志水家(大高城1万石、相応院)(愛知県名古屋市)
- 石河家(駒塚1万石)(岐阜県羽島市)
- 横井家(赤目城)(愛知県愛西市)
- 山澄家
- 瀧川家
- 織田家(織田貞幹家)
- 大道寺家(大道寺盛昌、大道寺直次)