上田秋成
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上田秋成(うえだあきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日) - 文化6年6月27日(1809年8月8日))は、江戸時代後期の読本作者。
[編集] 経歴
大阪の人。本名は東作。秋成は主に国学分野の著作で使われた字。
享保十九年(1734年)、遊廓で私生児として生まれた。実の父は誰かわからず、母親にも一度会ったのみだと後年『胆大小心録』で語っている。4歳で母と死別し、紙油商嶋屋の上田茂助に養子として迎えられる。茂助の実子である姉も、ふたりの養母(最初の養母とはすぐに死別、茂助が後妻を迎えたため、秋成には養母がふたりいる)も秋成に優しかったが、自分は上田家の人間ではないという意識を秋成が拭い去ることは出来なかった。5歳の時に疱瘡にかかり、一命はとりとめたものの、右手の指が短くなってしまった。
のらものとして青春時代を送り、悪友と遊びまわりながらも、俳諧・国学・漢学などの学識を早くから蓄えた。宝暦十年(1760年)、27歳で結婚。翌年養父が亡くなり、秋成は嶋屋を継ぐ。このころから和歌の勉強を始めた。33歳の時『諸道聴耳世間猿』『世間妾形気』で浮世草子の作者として世に出た。明和八年(1771年)38歳の時に火災で家産をなくし、医者の修行を始める。前期読本の代表作といえる『雨月物語』の刊行は安永五年(1776年)。その後は医者をしながら賀茂真淵門人の加藤宇万伎に師事して国学を学び、数々の著作を書いたり、本居宣長と論争を行なったりした。この頃が秋成の生涯の中で一番生活が安定していた時期であろう。
晩年は自分の診断ミスから患者を死なせたことを悔やみ医者を廃業。寛政九年(1797年)秋成64歳の時妻に先立たれる。両目を病んだ後に貧苦の生活をおくり、最後は文化六年(1809)京の知人宅で息を引き取った。享年76。博識と創作の天分にめぐまれながらも苦労の絶えない生涯であった。
[編集] 作品
1768年に成立した代表作『雨月物語』は江戸期でも特に重要な戯作文芸。他に『春雨物語』などを残した。歌人、国学者としても活躍し、本居宣長との論争が知られている。 煎茶に親しんだことでも知られ、煎茶に関する著「清風瑣言」を遺している。
ほぼ同時期に江戸で活躍した読本作者には曲亭馬琴や山東京伝がいる。