中村宗哲
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中村 宗哲(なかむら そうてつ)は、千家十職の塗師。中村家は、400年近く続く塗師の家。当初は蒔絵を施した家具などの製作(「通例塗師」といわれる)も行っていたが、明治時代以降は茶道具の塗師(「型物塗師」といわれる)専業となっている。
千宗旦の次男、一翁宗守(1593年~1675年)は、中村宗哲家の初代八兵衛(1617年~1695年、当時の八兵衛は吉岡姓)の娘婿となり、吉岡甚右衛門を名乗り塗師を営んでいたが、宗守が父・宗旦から官休庵(武者小路千家)を譲り受けた際に吉岡家を出て千家に復する時、家業を八兵衛に譲った。
現在は2005年11月に十二代中村宗哲(1932年、十一代中村宗哲長女弘子)が没してから、十三代は空席である。
[編集] 中村家歴代
- 初代宗哲(1617年~1695年、通称:八兵衛 号:公弼・方寸庵・塗翁・勇山・杯斎)
- 藤村庸軒、灰屋紹益らと親交を結ぶ。
- 代表作に江岑好・独楽香合、庸軒好・凡鳥棗など。
- 二代宗哲(1671年~1706年年、通称:八兵衛 号:汲斎)
- 代表作に乱菊中棗など。
- 三代宗哲(1699年~1776年、通称:八兵衛 幼名:鍋千代 号:方寸庵・漆翁・漆桶・勇斎・公弼・紹朴・芹生)
- 四代宗哲(1726年~1791年、通称:為安・八郎兵衛 号:深斎)
- 五代宗哲(1764年~1811年、通称:守一・八兵衛 号:豹斎・漆畝)
- 六代宗哲(1792年~1839年、幼名:昌之助 通称:八兵衛・為一・八郎兵衛 号:楪斎)
- 七代宗哲(1798年~1846年、幼名:槌六 通称:八郎兵衛・八兵衛 号:得玄・獏斎・黒牡丹)
- 五代次男。兄から家督を譲られ、形物塗師職人(茶道具漆器制作)となる。
- 代表作に名取川硯箱・夕顔台子皆具(浄雪・七代浄益・旦入 合作)など。
- 八代宗哲(1828年~1884年、幼名:丑之助 通称:八郎兵衛・忠一 号:至斎・聴雨・蜂老)
- 九代宗哲(1856年~1911年、旧姓:松崎喜三郎 号:義生・英斎・一畝・雲水)
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- 中村哲太郎
- 九代宗哲と十代尼宗哲の長男。父の死後に家督相続、「中村宗哲」として茶道具製作を行うが、その後廃業(廃業は家業を厭っていたからとも、病弱で家業の維持に自信がもてなかったためとも言われる)。昭和初年度に死去。
- 十代尼宗哲(1862年~1926年、名:真 八代宗哲四女)
- 九代夫人。岸田湘煙の女塾に入塾、自由民権運動の影響を受けて成長。後、府立女紅場一期生として入学、和裁を勉強する。結婚後は自宅で和裁塾を開いて家計を助ける。夫の死、長男の廃業に伴い、表千家12代惺斎の命により家督預かりとなり、多数の道具を製作。
- 代表作に惺斎好・笹蒔絵硯箱・雛用柳桜茶具(合作)・雛用懐石家具・近江八景棗など。
- 十一代宗哲(1899年~1993年、名:忠蔵 号:元斎・叩城・九土)
- 九代次男。戦中戦後の多難な時期に多数の名作を製作。京都府文化功労者。昭和60年、十二代に跡を譲り隠居。
- 代表作に惺斎好・唐崎松中棗・醍醐枝垂桜大棗、即中斎好・四季 誰が袖蒔絵茶器など。
- 十二代宗哲(1932年~2005年、名:弘子)
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