久留島通祐
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久留島 通祐(くるしま みちすけ、1738年(元文3年) - 1791年9月7日(寛政3年8月10日))は、豊後国森藩の第6代藩主。第5代藩主・久留島光通の七男(異説では九男)。正室は太田資俊の娘。官位は従五位下。信濃守。
幼名は栄之助。1764年、父の死去により家督を継ぐ。藩政においては桑原在学を登用して文教奨励政策に尽力し、後の藩校・修身舎開校の基礎を築いた。幕府においては大番頭・二条城と大坂城の城番を経て、伏見奉行となる。このとき、伏見の窮民を助け、1788年の内裏炎上では、その後の普請などで活躍した。嗣子に恵まれず、弟の久留島通同を養嗣子に迎えて後継者とした。1791年8月10日、54歳で死去。法号は泰清院。
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