九戸政実
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九戸 政実(くのへ まさざね、1536年(天文5年) - 1591年11月6日(天正19年9月20日)陸奥九戸城主)は南部氏の重臣。九戸信仲の子。弟に九戸実親。
九戸氏はもともと南部氏の一族である。
[編集] 九戸氏の勢力拡大
九戸政実は武将としての器量に優れており、九戸氏は政実の代に勢力を大幅に広げ、南部氏宗家に匹敵する勢力を築いた。その立場は南部氏宗家から自立した大名ではなく、その家臣三戸南部氏の家臣であったと一般には認識されている。しかしながら、中央の室町幕府の認識はあくまでも独立した大名であり、南部氏と共同歩調を取っている勢力として九戸氏を見ている。事実1563年に足利義輝が室町幕府諸役人の名前を書き出た資料の中にも南部晴政と並んで九戸政実が記入されている。 以上のことから、九戸氏と南部氏の関係は、従来言われるような主従関係ではなく、国人同士の対等同盟というべきであろう(例:武田氏と小山田氏)。
1569年、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大している。そして斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い、講和に貢献した。
[編集] 南部晴政・晴継の死と、南部信直との対立
1582年、南部晴政が病死すると南部氏は晴政の養子・信直と実子・晴継の後継者を巡る激しい家督争いが始まることとなる。晴政の跡は、実子の晴継が継いだが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまう(病死説有り)。
急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われた。後継者としては、南部晴政の養嗣子でもあった南部信直と、一族で最有力勢力の九戸政実の弟で、南部晴政の娘婿である九戸実親が候補に挙げられた。評定では九戸実親を推す空気が強かったが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は南部信直が後継者となることが決定する。
九戸政実としては、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である南部信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還することとなる。
[編集] 九戸政実の乱
1586年には信直に対して自身が南部家の当主であると公然と自称するようになる。 このような政実の姿勢は1590年の豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなく、ついには1591年1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5千人の兵力をもって挙兵した。もともと南部家の精鋭であった九戸勢は強く、更に南部信直は、家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり苦戦する。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦め、豊臣秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至る。 秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始し、出羽国から小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季、さらに津軽からは大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回った。
同年9月1日、九戸討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始する。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に九戸政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始。善戦した九戸政実であったが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏した。
豊臣秀次の陣へと引き出された九戸政実・実親兄弟らは死を覚悟しており従容として斬首された。そして女子供を含む九戸一族もことごとく斬殺され、九戸氏は滅亡したのである。