人文主義者
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人文主義者(じんぶんしゅぎしゃ)とは、ルネサンス期にギリシア・ローマの古典文芸を研究した知識人のこと。人文学者、ユマニスト(Humaniste)とも。英語ではヒューマニスト(Humanist イタリア語でUmanista)であるが、日本語の「人道主義者」とは意味合いが異なる。
古典の人文学研究(Studia humanitatis)はペトラルカに始まり、ペトラルカは人文主義者の父、とも呼ばれる。中世の時代を暗黒時代とみなし、古代の古典を学ぶことによって人間性が完成すると考えられた。中世のスコラ学が神学的な概念中心の学問であったのに対し、古典研究を通して、より自由な思考ができた点に特色がある。
- 初期にはラテン語文献の再発見が主であった。修道院の古写本からキケロの書簡集などが見つかり、ペトラルカを感激させた。なお、ペトラルカはホメロスのギリシア語写本も手に入れたが、読むことができなかった。
- 東ローマ帝国の知識人らを介してプラトンの文献もいくつか知られていたが、メディチ家の支援を受けたフィチーノがプラトン全集をラテン語に翻訳し、ネオプラトニズムはルネサンス期を彩る重要な思想になった。
- 旧約・新約聖書の本文についてヘブライ語およびギリシア語原文にさかのぼっての研究も進められ、カトリック教会の公式なラテン語訳聖書とされていたヴルガータ聖書の訳文に問題があることも知られるようになった。
- ギリシア語原文を読むことは聖書解釈の再検討、ひいてはカトリック批判につながるとして、ギリシア語を学ぶこと自体が異端視される場合もあった。
人文主義者の中には、既成の権威に反抗して弾圧を受けた人物も見られる。ただし「人文主義者がカトリック思想に反発」というのは単純すぎる言い方で、人文主義者自身はほとんどの場合カトリックの信仰を保っており、学識によって宮廷に仕え、権力者のブレーンとして活躍した人物も多かった。
人文主義者の思想には、後の宗教改革に結びつく要素も見られたが、ほとんどの人文主義者は穏健な思想を持っており、カトリック側と宗教改革運動側の対立が激しくなってくると、渦中から身を引く場合が多かった。よく「エラスムスが生んだ卵をルターがかえした」と言われるように、宗教改革の初期、エラスムスはルターを支持していたが、まもなく両者は決別した。こうした点で人文主義者の中途半端さや限界が指摘されることもある。
モンテーニュの思想は人文主義者の一つの達成であろう。フランス宗教戦争の最中、モンテーニュは「寛容」を説き、ヨーロッパ人と人食い人種のどちらが野蛮かを問うた。その思想は今日でも有効性を失っていない。
[編集] 人文主義者の例
- ペトラルカ
- ボッカッチョ
- アルベルティ
- ロレンツォ・ヴァラ
- ピウス2世 (ローマ教皇)
- フィチーノ
- アンジェロ・ポリツィアーノ
- ピコ・デラ・ミランドラ
- マキアベリ
- エラスムス
- トマス・モア
- ルフェーヴル・デタープル
- ミシェル・セルヴェ
- ラブレー
- モンテーニュ
- ジョルダーノ・ブルーノ