佐竹義人
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佐竹 義人(さたけ よしひと、応永7年(1400年) - 応仁元年12月24日(1468年1月19日))は室町時代の人物(守護大名)。佐竹氏の第十二代当主。関東管領上杉憲定の次男で第十一代当主佐竹義盛の養子(婿養子、妻は源姫)。幼名、竜保丸。初名は義憲(よしのり)。別名義仁とも。第十三代当主佐竹義俊、佐竹実定、戸村義倭、小野岡義盛の父。左馬助。
当初は義憲と名乗っていたが、1416年に「義憲」から「義人」(義仁)に改名している。
上杉禅秀の乱の際には鎌倉公方足利持氏方として行動し、上杉禅秀方についた一族の稲木義信・山入与義を征伐した。義信は戦死し、与義は降伏したが、その後も山入氏は、与義やその子である山入祐義が幕府から常陸守護を拝命するなどして義人に抵抗を続けた。
1437年、足利持氏と関東管領上杉憲実の対立が深刻化すると義人の立場は複雑なものとなる。実家である上杉氏の存在を背景として家督を継いでいた義人にとって、上杉憲実(義人の次男・義定は憲実の猶子であった)と室町幕府(山入氏を支持していた)の連携によって持氏派の義人は実家の後ろ盾を失う事になった。このため、義人は家督を嫡男・義俊に譲って持氏支持の態度を継続した。間もなく始まった永享の乱で持氏が自刃し、さらに結城合戦で関東の持氏派の残党が一掃され、遂に将軍足利義教による佐竹氏討伐が計画されるに至った。しかし、義教が嘉吉の乱で暗殺されるなど関東の政局が佐竹氏にとって好転したこともあり、その後も実権を握り続けた。しかし、山入氏など庶家の抵抗は依然として強く、さらに晩年は義人が実家上杉氏との関係改善を図り、当主の義俊を遠ざけ実定を偏愛したため、1452年には、義俊・義治(第十四代当主)父子が居城を追放されるなど、家中はますます混乱した。1465年、実定が死去し、1468年には義人が死去すると佐竹義定(実定の嫡子)は江戸通長の元に追放され、代わって義俊父子が常陸太田城に復帰することになる。