内藤政樹
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内藤 政樹(ないとう まさき、1706年12月3日(宝永3年10月29日) - 1766年10月27日(明和3年9月24日))は、陸奥国磐城平藩の第6代藩主。日向国延岡藩の初代藩主。磐城平藩の第3代藩主・内藤義概の次男・内藤義英の長男。官位は従五位下、備後守。子に正堯(早世)、三浦明次室らがいる。
[編集] 生涯
父は祖父の義概によって廃嫡され、松尾芭蕉からもその才能を認められた義英である。享保3年(1718年)に先代の藩主・内藤義稠が22歳の若さで嗣子も無く早世したため、義英の子である政樹が後を継いだ。しかし若年のため、しばらくは俳人であった義英が藩政を後見することとなった。
ところが翌年正月、内藤政樹の新藩主就任祝いとして、松賀族之助・松賀孝興親子から饅頭が献上された。しかし義英はこれを怪しんで、饅頭を犬に食わせてみたところ、たちまち犬は死んでしまった。つまり、毒饅頭だったというわけである。どうも松賀は、若年の藩主のもとでいいように藩政を牛耳り、あわよくば藩主の座まで狙っていたようだが、政樹の後見人として義英がいる以上、それも無理だと判断して政樹の毒殺を謀ったらしい。
義英はこれに怒って松賀族之助・孝興親子とその一派を全て捕らえた。そして取り調べの結果、主犯は老齢の族之助が行なったものではなく、その子である孝興であると判明した。義英は孝興を牢にぶち込んで獄死させ、族之助とその孫・松賀稠次に対しては永蟄居の上、松賀家は断絶処分とした。さらに松賀親子の腹心であった島田理助も処刑するなど、一派に対しては厳しい処断を下した。こうして、延宝8年(1680年)(だが、騒動の始まりは、実際はもっと前とも言われている)から始まった小姓騒動は完全に終止符を打ったのであった。
その後、義英は再び俳句に専念したため、政樹が藩主として親政を行なうようになる。ところがこの頃の藩ではこのような騒動における混乱や松賀の悪政などによる重税で苦しめられた領民の不満、洪水や凶作などの天災と藩財政破綻などが相次いでいた。このため元文3年(1738年)9月に元文百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。この一揆は大規模なもので、2万人もの群衆が城下に押し入って役宅や町役所をぶち壊したりしたが、政樹はこれを力で弾圧して百姓の要求を退け、指導者28人を捕らえて、そのうち7人を鎌田河原で処刑した。しかし、この百姓一揆が原因となって、延享4年(1747年)に日向延岡に懲罰的な転封をされたのである。 ちなみに、陸奥国磐城平から、日向延岡への転封は江戸大名の中で最も長距離の転封である。
宝暦6年(1756年)、養嗣子の内藤政陽に家督を譲って隠居。明和3年(1766年)、61歳で死去。
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