冷泉為純
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冷泉 為純(れいぜい ためずみ、享禄3年(1530年)-天正6年4月1日(1578年5月7日))は、戦国から安土桃山時代にかけての公家・武将。藤原惺窩の父に当たる。播磨国細川荘(現在の兵庫県三木市)に下向して領主化していた事から細川 為純(ほそかわ ためずみ)とも言われるが、室町幕府管領の細川氏との関係はない。官位は従三位、侍従。参議。
享禄3年(1530年)、下冷泉家の当主・冷泉為豊の子として生まれる。天文7年(1538年)に従五位下に叙される。その後、様々な官職を歴任し、天正4年(1576年)に従三位、侍従に叙任される。天正5年(1577年)、参議に転任する。
天正6年(1578年)4月1日、播磨において織田信長の命令を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の中国方面軍に協力して嬉野城に立て籠もっていたが、秀吉から援軍が送られなかったために別所長治の攻撃を受けて自害した。享年49。