勝田武尭
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勝田 武尭 (かつた たけたか (新左衛門 しんざえもん)、 延宝8年(1680年) - 元禄15年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では札座横目と中小姓を兼務していた。15石3人扶持。
赤穂浅野家家臣の勝田新左衛門重尭の子。母は佐藤甚右衛門の娘。元禄元年(1688年)に父と母が相次いで死去したため、9歳で勝田家の家督を相続。
元禄7年(1694年)備中松山城受け取りの軍にも従軍している。
元禄14年(1701年)3月、浅野長矩の殿中刃傷時には赤穂にいた。4月、大石内蔵助の神文血判を提出した一人。赤穂城開城後はすぐに江戸へ下向し、堀部安兵衛ら江戸急進派と合流した。元禄15年(1702年)6月、浅草茶屋において親しくしていた前原・倉橋・杉野・不破・武林らとともに同盟の誓約をした。
特に親しかったのが杉野十平次次房で、8月からは本所の杉野の借家に住ませてもらっている。吉良邸討ち入りでは表門隊に所属した。2月4日、長府藩毛利家上屋敷で同家家臣の進藤為右衛門の介錯で切腹した。享年24。主君長矩と同じ泉岳寺に葬られた。法名刃量霞劔信士。