北条重時
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北条重時(ほうじょう しげとき、1198年7月11日(建久9年6月6日) - 1261年11月26日(弘長元年11月3日))は、鎌倉幕府連署である。父は2代執権北条義時、母は比企朝宗の娘。兄弟に北条泰時、北条政村ほか。子に北条長時、北条時茂、北条義政、安達泰盛の室となった娘他。極楽寺殿とも呼ばれる。初代執権北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥にあたる。
承久元年(1219年)に侍所別当となり、寛喜2年(1230年)には京都六波羅探題北方に就任。宝治元年(1247年)に5代執権北条時頼・御家人安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦後に鎌倉へ呼ばれ、大叔父北条時房死去後、空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は息子長時が就任した。康元元年(1256年)に出家し引退後は、極楽寺に隠居した。連署は弟政村が就任した。同年執権時頼が病で出家した為、執権は息子長時が就任した。弘長元年(1261年)に死去、享年64。
和歌などの文化的活動も行い、『千載和歌集』にも歌が収録されており、藤原定家とも親交があったとされる。著作に家訓として残した『極楽寺殿御消息』、『北条重時家訓』などがある。