千馬光忠
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千馬 光忠(せんば みつただ、承応2年(1653年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士47士の1人。赤穂藩では譜代の臣下で100石取り(のち30石に減封)。馬廻り役と宗門改役を兼務していた。通称は三郎兵衛(さぶろべえ)。千馬の読みは「ちば」という説も有力。
高槻藩永井家の家臣の千馬求之助の次男。母は赤穂浅野家家臣の筑間三右衛門の娘。同族で赤穂浅野家家臣の千馬三郎兵衛光利の養子に入った。寛文11年(1671年)8月17日に養父光利が死去。家督を継いだのもこの時と思われる。赤穂藩では馬廻り役・宗門改役をつとめ、100石を食んだ。しかし千馬は実直で融通が利かない性格だったといわれ、主君の浅野内匠頭にさえしばしば直言した。そのため内匠頭の不興を買い、ついに元禄10年(1697年)8月18日には閉門を命じられ、この際に100石から30石に減封される。しかしなおも千馬の直言癖は直らず、内匠頭との関係は悪くなる一方だったので、元禄14年(1701年)3月初めには千馬の方から浅野家から離れたいという暇願いを浅野内匠頭に提出していた。しかしその許しが出る前の3月14日に浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶ。(一説に内匠頭は3月初めに出された千馬の暇願いを即座に受理したので、14日の時点ではすでに千馬は浪人していたとも)
どんなに嫌な主君でも主君は主君ということで、浅野内匠頭が討とうとした吉良上野介を代わって討つことを決意。筆頭家老の大石内蔵助の盟約に加わった。赤穂城開城後は大阪の兄のもとに身を寄せ(兄の荊木貞右衛門は高槻藩を追われ、浪人中だった)、元禄15年(1702年)1月に大石内蔵助に正式に神文血判書を提出した。9月7日に江戸へ下向し、新麹町四丁目の借家に住んだ。変名は原三助。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。本懐後、松平定直の屋敷にお預かりとなり、同家家臣波賀清大夫の介錯で切腹した。享年51。主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。法名は刃道互剣信士。
なお世間の赤穂浪士英雄化が後押しして遺児である千馬藤之丞宣忠は岡山藩池田家に召抱えられた。