吉川経家
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吉川 経家(きっかわ つねいえ、1547年(天文16年) - 1581年11月21日(天正9年10月25日))は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣で、吉川経安の嫡男。子に吉川経実。養子に吉川経言。石見吉川氏であり、吉川本家の庶流の生まれである。家系図に吉川経世の子で『経家』という者がいるため、しばしば混同される。
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[編集] 生涯
[編集] 死地・鳥取城へ
1581年、織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国征伐軍が因幡国まで侵攻してきた。山名豊国は織田氏に降伏しようとしたため、家臣の森下道誉・中村春続に追放されることとなった。森下・中村の両名は吉川元春に支援を求め、吉川一門の派遣を要請した。元春はこの要請を受け入れ、吉川一門で文武両道に優れた名将として、経家に鳥取城を守備するよう命令を下した。この時、経家は自らの首桶を用意しており、その決死の覚悟を窺うことができる。
異説では山名豊国は吉川経家が入城した時にも在城しており、吉川経家や鳥取城の情報を逐一織田氏に密告しており、それが毛利氏に発覚したために逃亡したとも言われている。
[編集] 鳥取城籠城戦「鳥取城渇え殺し」
1581年2月、吉川経家は鳥取城に入城する。鳥取城の守備兵は山名氏配下が1000名、毛利氏配下が800人、近隣の籠城志願の農民兵が2000人の、おおよそ4000人であった。経家はすぐさま防衛線の構築に取り掛かり、籠城の準備を進めた。しかし、兵糧の蓄えの無いことを知り愕然とした。羽柴秀吉の策略により、因幡国の兵糧は全て高値で買い漁られており。鳥取城の城兵もその高値に釣られて、備蓄していた兵糧米を売り払っていたのである。
1581年6月、経家の予測より早く羽柴秀吉率いる2万の因幡侵攻軍が鳥取城を包囲し、攻撃を開始した。しかし秀吉は吉川経家の名将ぶりを知っており、無闇に手を出さず、黒田孝高の献策により包囲網を維持し続けた。鳥取城は包囲網により糧道を断たれ、兵糧は尽き、ついには餓死者が続出し始める。4ヶ月の籠城に耐えたが、同年10月、吉川経家は森下道誉・中村春続と相談し、ここに至って城兵の助命を条件とし、降伏することとなった。
羽柴秀吉は吉川経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけで良く、吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。困惑した羽柴秀吉は織田信長に「経家が自害しても良いか」との確認を取り、経家の自害を許可している。
10月25日に経家は自害し、その一生を終えた。その際に父や子供らに遺書を送っており、自分の心情を記している。その遺言状は現存している。
[編集] 余談
落語家で『笑点』の4代目司会としても知られる三遊亭圓楽(本名吉河寛海)は、吉川経家の3男、吉川家好(いえよし)の子孫であるという。家好は後に鳥取藩池田家の家臣となり、明治に至り、圓楽の祖父吉川寛雅が「吉川」から「吉河」に姓を改めたと言う。
- 「落語で生かそう法然流 圓楽一代記」1、『浄土宗新聞』1990年(平成2)5月1日付より。
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