ノート:吉田茂
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[編集] 質問
- 吉田茂が貴族院議員だったというのは初耳ですが、ひょっとして内務省出身の吉田茂と間違えているとかというのはありませんか?
- 表では2世議員となっていますが、吉田と実父の竹内綱は選挙区こそ同じものの父親の死から20年以上経ての出馬ですし、そもそも3歳で他家の養子に出した息子を世襲の後継者扱いするのには疑問を感じるのですが。
以上、気になったので。--水野白楓 2006年5月27日 (土) 01:38 (UTC)
昭和20年12月から22年5月まで確かに貴族院議員を務めています
↑IPさんからのお答え。以下は、私から。
- 貴族院議員について。いくつか吉田茂について書かれた本を漁ってみましたが、確かにこの点については触れてないものばかりでした。しかし、秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年、ISBN 4130301209)に、上記のIPさんから寄せられた情報と同じことが書かれていました。内務省出身の吉田茂ではなく、首相になった吉田茂で間違いないです。年月しか書かれていないので、経緯等の詳細はわかりませんが…。
- 世襲について。「2世議員」の定義次第のようにも思ったのですが、表の項目は「世襲の有無」となっているので、それならば「無し」が適切でしょう。世襲したことにはならないです。実方の父が衆議院議員であったことは、補足してもいいかもしれませんが、混乱を招きそうならなくてもいいと思います。--oxhop 2006年5月30日 (火) 14:01 (UTC)
1.の件ですが、私も少し貴族院の歴史についてかじったのですが、昭和20年の秋口以後よりいわゆる戦争犯罪人の摘発や公職追放が始まり、戦犯容疑者又は追放対象者とされた人物の中から貴族院議員の辞表を出した人が相次いだようです。勅撰議員は天皇によって(実質は政府の判断)によって補充がきくため、この際に貴族院議員に補されたと推定されます。ちなみに幣原・吉田(第1次のみ)2代の総理はいずれも貴族院議員の身分で大命降下を受けて内閣を組織しています。--水野白楓 2007年3月1日 (木) 13:04 (UTC)
[編集] 吉田茂
1906年(明治39年)11月、外務省に入省。領事官補として天津で勤務。 1907年(明治40年)、奉天領事館に勤務した。 1909年(明治42年)、牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに勤務。 1912年、帰国した。その後天津総領事、奉天総領事を経て田中義一内閣の下で外務事務次官、駐伊大使、駐英大使等を歴任した。 外務省時代の吉田の行動を見てみると、田中義一内閣で森恪(政務次官)とともに外務次官を務めてその外交政策を支えるなど、その立場は「英米協調派」ではなく、有田八郎らと同じ「アジア派」に属すると言われている。だが、イギリスのネヴィル・チェンバレンとは個人的に親しく、政治思想的にはナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父である牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」と看做された。二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・書記官長の候補にあがったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使として日英の和平を目指すが、本国の情勢を無視した和平案ばかり提出し英国側からはさめた目で見られていた。日独伊三国同盟に反対していた。 1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。 帰国後は対米強硬策をとる近衛文麿内閣に突然書簡で総辞職を要求した。東条英機内閣が成立すると東郷茂徳外相に対し、幣原喜重郎と協議して決めた和平案を提出するが、和平がならないとみると東郷に閣内不一致で総辞職に持ち込むよう要求したが東郷はきかなかった。 太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)。宇垣一成を首相に担ぎ出し皇道派と提携させ早期終戦を計画するも中野正剛の自殺や宇垣の非協力的態度からこれを諦めた。 ミッドウェー大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが木戸幸一に握りつぶされる。東条英機重病の噂が流れると殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討、吉田自身が外相となる皇道派内閣を計画するが、海軍の不協力と皇道派はソ連を刺激するという反対にあい挫折。書生として吉田邸に潜入したスパイによって1945年2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束されるも40日後に仮釈放、後に不起訴とされた。これは吉田と懇意の間柄だった阿南惟幾陸相による裁断の結果だと言われている。