吉良尊義
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吉良 尊義(きら たかよし、貞和4年/正平3年(1348年) - 没年不詳)は南北朝時代の武将。吉良満義の子(系図により三男とも四男とも言われる)。吉良満貞の弟。後期東条吉良氏(下吉良)の初代。東条城主。中務大輔。子は吉良朝氏。初名は義貴。のち足利尊氏より一字をもらい尊義と名乗る。
前期東条吉良氏(奥州・武蔵吉良氏)の吉良貞家・吉良満家父子が奥州に去った後、東条の地は惣領家である西条吉良氏のものとなり、吉良満義が東条城を接収した。その後、尊義が生まれるが、間もなく観応の擾乱が始まり、満義・満貞父子は足利直義派として各地を転戦、直義の死後はその養子直冬や南朝と結んで尊氏に敵対した。
しかし、天下の趨勢を敏感に感じ取った東条の被官層は、延文元年/正平11年(1356年)に満義が没すると、9歳の尊義を奉じて尊氏派に転じ、新たに東条吉良氏として独立する。これを押領とする満貞との間で合戦に及ぶが、その後、満貞の北朝帰順もあり、和談が成立、尊義は正式に東条相続を認められる。だが、尊義独立の際の争いはしこりを残し、室町時代を通じて西条・東条両吉良氏は事あるごとに対立・抗争を繰り返すこととなった。
応安元年/正平23年(1368年)、東福寺において父満義の十三回忌法要を盛大に営んでいる。
没年月日は不詳。墳墓は吉良庄岡山の霊源寺(現・愛知県幡豆郡吉良町岡山花岳寺境内東条吉良氏墓所)。法名は霊源寺殿。
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