唇音退化
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唇音退化(しんおんたいか、英語:Labial weakening)とは、両唇音(pなど)の発音が、閉鎖が弱い発音へ歴史的に変化する音韻現象(音韻推移)で、いろいろな言語に見られるが、特に日本語で顕著である。
日本語では奈良時代以前、ハ行音はパ行([p-])として発音されていたと推測される(漢語の音節末内破音の後ではニッポンのように後まで[p-]が残った)。その後は[ɸ-]、つまりファ行として発音された。平安時代中期以降になると語中・語尾のハ行音が、ワ行([w-])として発音されるようになった(ハ行転呼)。歴史的仮名遣はほぼこの変化前の発音を反映している。
例:
- かふ[kaɸu](買う) > かう[kau](室町時代には[kɔː]と発音)
- は[ɸa](助詞)>わ[wa]
- はは[ɸaɸa](母)>はわ[ɸawa](その後、はは[haha]に変化)
語頭のハ行音は江戸時代初めまでɸ-で発音されたが、その後フを除き、現代風の発音([h-])が標準的となる(ヒはさらに硬口蓋化して[çi]となる)。さらにワ行のうち「ヰ、ヱ、ヲ」は古く「[wi、we、wo]」だったが、「[i、e、o]」つまりア行と同じ発音に変化した(「ヰ、ヱ、ヲ」で始まる単語は「ワ」で始まる単語よりはるかに少なく、「イ、エ、オ」に変化しても弁別に支障がなかったためと思われる)。以上をまとめれば、
- [p-] > [ɸ-] > [w-](語中・語尾)、[h-](語頭)
- [wi], [we], [wo] > [i], [e], [o]
というふうに、唇の閉じ方が次第に弱くなっていった傾向が見られる。助数詞の「本」は現在でも2ホン、3ボン、1ポンのように発音し分けるが、これは前音節の末尾の違い(母音、鼻音、内破音)の影響が残っているのである。
また、合拗音の退化(クヮ > カ など)も同じ傾向によるものとみられる。
[編集] 他の言語
類似した変化は他の多くの言語でもかつて起こったと考えられる。たとえばインド・ヨーロッパ語では、次の例のように数段階にわたって両唇破裂音から唇歯摩擦音への変化が起こったと見られる。ただし他の破裂音にも平行した変化が見られる点で日本語と異なる(破裂音の摩擦音化)。
- 印欧祖語 *bhrater > ラテン語 frater(兄弟;英語では brother)
- 印欧祖語 *ph2ter > 英語 father(父;ラテン語では pater):グリムの法則
- 英語 sleep:ドイツ語 schlafen(眠る):高地ゲルマン語の第二次子音推移
- 古英語 habban > 現代英語 have(持つ)
また[f]または[ɸ]が[h]に変化したと思われる例も見られる(ケルト語、ポリネシア語など)。
フランス語などでは合拗音退化と同様の変化(Quaをクァでなくカと発音する)が見られる。