土岐頼益
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土岐 頼益(とき よります、観応2年(1351年) - 応永21年(1414年))は室町時代の武将。美濃守護。土岐頼忠の次男。子に土岐持益。通称は池田二郎。
康応元年(1389年)に土岐氏惣領家の美濃・伊勢守護土岐康行が将軍足利義満の挑発に乗って挙兵(土岐康行の乱)。一族の多くは康行に味方したが、土岐西池田家の頼忠・頼益父子は幕府に味方して康行と戦い、結局、明徳元年(1390年)に康行は敗れて没落した。美濃守護には頼忠が任じられ、以後、土岐西池田家が主流となる。
応永2年(1495年)頃に頼益は父の後を継いで美濃守護となった。頼益は文武に優れた人物で、各地を転戦して戦功をあげた。応永6年(1399年)の応永の乱では頼益は幕府軍に加わって和泉国堺へ出陣していたが、土岐詮直(康行の従兄弟で乱後没落していた)が大内義弘に呼応して挙兵し、美濃へ乱入した。頼益は直ちに兵を返して詮直を打ち破っている。
頼益は義満、義持から信任され、応永8年(1401年)に評定衆に列し、応永10年(1403年)の着座で諸将の筆頭として破格の扱いを受け、幕府七頭の一家となり、侍所所司、宿老を歴任して幕閣の要人として重んじられた。
一方、本国美濃では古くから土着している土岐氏庶流の多くは西池田家が主流となったことに反抗的で頼益は統治に苦労し、このため外様の国人の富島氏を守護代に重用するようになった。頼益のときに目代の斎藤氏が被官となり守護代となっている。斎藤氏は後に土岐氏を凌ぐ存在となる。