坂本真琴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂本真琴(さかもとまこと、1889年5月7日 - 1954年7月15日)は、大正から昭和初年にかけて婦人参政権運動を推し進めた婦人運動家。旧姓は高田。静岡県田方郡三島町(現在の三島市)出身。高田常三郎と妻みよの長女として生れる。本名は「まこ」(「こ」は変体仮名で「古」をくずした、片仮名の「ホ」のような字体)。妹の高田敏子は日本の女子・英語教育のパイオニア。
目次 |
[編集] 略伝
一家が神奈川県横浜に移住したため、共立女学校(現在の横浜共立学園)に学ぶ。『青鞜(せいとう)』創刊号の平塚らいてうの巻頭言に感銘を受けた真琴は、1913(大正2)に青鞜社へ入社。同じ頃に坂本勇吉と出会い長女出生、 1916年(大正5)に入籍する。その後、夫勇吉との間に5女を儲ける。
1919(大正8)に平塚らが結成する「新婦人協会」にも参画し、婦人運動に身を投じる事になる。特に、新婦人協会が創立当初から最優先課題として取り組んでいた、当時女性の集会結社の自由を阻んでいた治安警察法の改正運動(治安警察法第五条改正運動)に献身。協会支持議員の選挙応援や、法改正案の議会上程後は連日衆議院・貴族院での議会工作に奔走、1922年(大正11)の同法改正案成立へと導いた。
1924(大正13)12月創設の「婦人参政権獲得期成同盟会」(翌年婦選獲得同盟と改称)では中央委員、会計理事を歴任。婦選同盟理事として活躍した。
[編集] エピソード
普段の生活における真琴は、夫の家業を手伝い、家事と育児に精を出す、ごく普通の一主婦であったと言う。その一方、婦選運動の中核として、寸暇を割いての奮闘を続けていた。夫の勇吉は、そんな真琴を理解し、決して干渉する事はなかった。
宿願であった治安警察法第5条一部改正の成った翌年、1923年(大正12)には、まだ7歳になったばかりの次女を失うという悲劇に見舞われたが、真琴の情熱が冷める事はなかった。勇吉とは1936年(昭和11)に死別するが、その後は一家を支えて残された4人の娘を育て上げた。
戦後、ようやく婦人参政権が実現した後、たびたび国政選挙への出馬を打診されるも全て断り、 好きな油絵を嗜みつつ、悠々と余生を送ったという。
[編集] 引用・参考文献
- 加藤重1996『凛として生きる-渡辺カネ・高田姉妹の生涯-』
- ※2000年に晩聲社より『凛として生きる-渡辺カネ・高田敏子・坂本真琴の生涯-』と改題復刊。
- 横浜共立学園120年の歩み編集委員会1991「高田真琴(坂本真琴)・敏 姉妹」『横浜共立学園120年の歩み』学校法人横浜共立学園・神保勝世、146~147ページ。
- 坂本真琴1922「治警第五条修正運動の概略」『女性同盟』6月号(14号)、5~12ページ。
- 坂本真琴1929「安達内相に-治警五条全条の削除を要望します-」『婦選』11月号(3巻11 号)、12~14頁。
[編集] 外部へのリンク
- 坂本真琴と治警五条改正運動(歴史が眠る多磨霊園)
- 女性に政談集会参加を禁じた治安警察法
- 『友情のかけ橋:高田敏子の生涯』エルシーK.フィールド著・波多野まち子訳、高田育英会刊。
- (原書タイトル)Field, Elsie Kimmell 1979 TOSHI TAKATA:LADY OF THE FRIENDSHIP BRIDGE :Kawasaki, Japan. Takata Scholarship Society.
- 坂本真琴、高田敏子姉妹が育った家の様子や、二人が、婦人運動と女子教育という、それぞれの道へと進むに至った背景と、その道のりを知ることが出来る。