堀直次
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堀 直次(ほり なおつぐ)
- 堀直政の初名。越前北ノ庄時代の文書に堀直次と署名したものがある。
- 堀直清の初名。『寛永諸家系図伝』では直次となっている。『寛政重修諸家譜』のさい、村松堀家の左京亮直方が幕府に提出した呈譜には直清とあり、『寛政~』では系図は直次とし、註として、「直方が呈譜に、直清に作る、」と記されている。
- 堀直寄の長男、村上藩の嗣子。
堀 直次(ほり なおつぐ、慶長19年(1614年) - 寛永15年(1638年)7月)は、堀直寄の長男。母は松平親政の娘。堀直定、娘(堀直吉室)の父。字は三十郎。名は直大、のち直次。妻は土井利勝の娘。
慶長19年(1614年)、駿府で生まれる。寛永13年(1636年)、父直寄が隠居し、家督を相続。従五位下、兵部少輔に叙任され、村上藩主となる。生来病弱だったため、寛永15年(1638年)に父に先立って死去。翌年には直寄も死去したため、直次の子でわずか4歳の直定が跡を継ぐことになったが、寛永19年(1642年)に夭折し、村上藩の堀家はそこで断絶した。直次の弟直時が、三万石を分知されていて、安田に陣屋を構え、のちに村松に陣屋を移し、村松藩の初代となった。
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