堀直清
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堀 直清(ほりなおきよ、天正元年(1573年) - 寛永18年(1641年))は江戸時代の大名。堀直政の嫡男で、弟に堀直寄、堀直重、堀直之ら。妻は堀秀政の娘。字は雅楽助、のち監物、名は最初直次、のちに直清に改める。
堀氏の本家の当主・堀秀治と堀忠俊に仕える。父の名代として三条城の城主となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に東軍に属し、越後国で発生した上杉氏残党による一揆の鎮圧に尽力した。8月4日、上杉方が土民を騙り、三条城を攻撃、直清は敵を数多く討ち取り撃退。そののち一揆勢は越後の境、加茂山に砦を構え、9月8日、会津の兵三千余人とともに大崎へ出陣する。直清は三条城より討って出て、敵将を討ち取り、台徳院(徳川秀忠)から賞美される。
慶長13年(1608年)、父の死後三条5万石の城主となり、堀家の執政職となる。慶長15年(1610年)僧侶殺害を直寄が家康に訴えたため、改易となる。その僧侶殺害については、直清と一向宗の僧が宗論となり、僧侶を弾圧、僧侶がそのやり方を非難し、一揆を起こしかねない状況になり、首謀者を捕えて斬首したという。直政の妻自性院は、この騒動が一向一揆に発展し、堀家の没落に発展しかねないと恐れ、自分の縁者に当たる徳川秀忠の妻お江の方に書状を送り、善処を乞うた。さらに、直寄を使いに家康にも助力を求めた。家康はこれにより直政時代にはできなかった堀家除封の口実を得た。堀忠俊、堀利重、堀直清、堀直寄ら一族が駿府へ呼び出され、家康による裁定が行なわれた。忠俊は直清には非が無いことを訴え、助命嘆願した。家康は「家中取締不十分」とし、忠俊から所領を没収、忠俊は岩城の鳥居忠政のもとへ配流、直清も所領没収、最上義光のもとへ配流となる。直寄は1万石の減封。
堀家除封の頃の堀家を取り巻く情勢を見ると、家康は外様大名の排除を着々と進めていっていた。上杉遺民一揆は堀家により鎮圧され、直江兼続ら与板衆は藩内で立場を失い、堀家への怨念もあったのかどうか。堀家除封後は、直江津福島城(越後国)は廃城となり、松平忠輝が高田城に入る。福島廃城、高田築城が忠輝の姻戚の伊達政宗の指揮によるのは何かの因縁か。僧侶との諍いはなぜ起きたのか、その僧侶は何者だったのか。真相は闇の中だが、これらの情勢を鑑みると、堀家が越後国主であり続けることは極めて困難であったということが窺える。
直清の息子達は次男の主計直浄(家系図によっては直倫)は村上藩の堀直寄に仕え、村上除封後は新発田藩の溝口家に仕える。六男の主馬助直正(家系図によっては直信)は溝口宣直の母長寿院の招きにより、新発田藩の溝口家に仕える。七男の新五左衛門直勝(家系図によっては直長)は信州飯田藩の堀家に仕える。
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[編集] 参考文献
- 『堀家の歴史』 堀直敬著 堀家の歴史研究会 1967
- 『寛政重修諸家譜』 巻第七百六十六