大阪の花街
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大阪には、江戸時代から4つの大きな花街があり、昭和初期まで隆盛を極めていたが、戦後は大阪経済の低迷や後継者難などで、現在、「花街」としての機能を辛うじて果たしているのは北新地と南地のみである。しかも芸妓は、北新地に10人、南地に数人程度しかいないため、ほぼ壊滅状態に近い。
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[編集] かつての「大阪4花街」
[編集] 新町
大阪最古の花街で、江戸時代には大阪唯一の幕府公認の花街であった。地名の由来は、大阪中の花街を集めて一つの新しい町にしたことから。江戸の吉原、京都の嶋原と並ぶ3大遊郭の一つだったが、娼妓より芸妓の数が上回っていた。『浪花踊』が上演された新町演舞場は閉鎖されたが、建物は残っている。「砂場そば」の発祥の地でもある。
[編集] 堀江
1698年、河村瑞賢が堀江川を掘削した際、現在の北堀江の北半分が花街となった。新町の南側に位置するが、新町に比べ娼妓主体の花街であった。相撲場や人形浄瑠璃の芝居小屋も近くにあり、新町より「庶民性」を強調していた。上演演目は『木の花踊』。
[編集] 南地
通称「ミナミ」として知られている。江戸時代から道頓堀の劇場街とともに発展した。南地には細かく分けて、五つの花街(宗右衛門町・九郎右衛門町・櫓町・阪町・難波新地)があり、それらを総称して「南地五花街」と呼んだ。明治以降は新町や堀江に代わって大阪最大の花街となり、最盛期には芸妓と娼妓を合わせて3000人以上在籍していた。上演演目は『芦辺踊』で、現在のOSKが大阪松竹座で演じる「春のおどり」がその流れを汲んでいる。
[編集] 北の新地
別名「北陽新地」で曽根崎新地と堂島新地の総称。明治以降は新町・堀江を抜いて、南地に次ぐ地位を占めていた。かつては曽根崎川(蜆川)が流れ、近松門左衛門の『曽根崎心中』の舞台となった。上演演目は『浪花踊』。
[編集] その他の花街(遊廓)
[編集] 大阪市
[編集] 堺市
- 龍神新地
- 栄橋新地
[編集] 大阪花街の特徴
京都や東京の花街と比較すると、大阪の花街は「芸妓」本位の遊廓と「娼妓」本位の遊廓との共存割合が高く、しかも後発の花街(松島・飛田など)ほど娼妓本位の傾向にあった。