姉小路顕朝
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姉小路 顕朝(あねがこうじ あきとも、建暦2年(1212年) - 文永3年9月20日(1266年10月19日))は、鎌倉時代中期の公卿。父は参議姉小路宗房、母は左京大夫藤原清長の娘。妻は二条定高の娘。子に姉小路忠方がいる。
父は散位の状態で病死したために、若年時には苦労したが暦仁元年(1238年)に右少弁に昇って以後は九条道家・後嵯峨上皇の信任を受けて昇進する。特に後嵯峨上皇の元では伝奏を務めて、同院の院政における中核的な地位にあった。特に六波羅探題でさえ関与する事を渋った比叡山延暦寺関係の交渉において進んで交渉役を引き受けて問題解決を図った事によって上皇の信任を得た。宝治2年(1248年)に参議に列すると2年後には権中納言に昇る。その後按察使に転じて弘長2年(1262年)には中納言、文永2年には権大納言に昇った。顕朝の家系で権大納言に昇った者はおらず、異例の人事であるとともに後嵯峨上皇一番の側近としての地位を内外に認められた証でもあった。だが、直後に病に倒れて翌年には出家、そのまま病没した。
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