安藤信尹
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安藤 信尹(あんどう のぶただ、享保2年2月(1717年) - 明和7年12月30日(1771年2月14日))は、美濃加納藩の第2代藩主。安藤家5代。加納藩初代藩主・安藤信友の養子となっていた安藤信周(安藤家2代・安藤重長の三男・安藤重常の次男)の長男。正室は細川宣紀の娘。子は安藤信成(次男)、安藤直時(三男)、安藤信姿(四男)、娘(上杉勝承継室)、娘(中山直寛継室)、娘(西尾茂教継室のち中川忠英室)。官位は従五位下。対馬守。大和守。
[編集] 経歴
享保2年(1717年)2月、江戸に生まれる。父の信周は先代・信友の養嗣子となっていたが、享保12年(1727年)6月7日に信友に先立って死去。このため、信尹が養嗣子となって享保17年(1732年)に信友の死により家督を継いだ。
しかし寺社奉行や老中などを歴任して有能だった信友と違って信尹は暗愚で、自らは奢侈を好んで財政を悪化させた。このような藩主のもとで役人は怠慢となって綱紀は乱れ、領民は藩主の奢侈のためによる重税や御用金に苦しめられた。そして遂に領民による強訴が起こり、藩内では家中騒動も発生する。ここに至って家老・坂田斎宮は信尹を一年間幽閉して騒動を鎮めようとしたが、この騒動が幕府に露見して宝暦5年(1755年)、信尹は「不行跡、並びに家中仕置宜しからず」の理由から強制敵に隠居を命じられ、家督を嫡男・信成に譲ることを余儀なくされた。また、所領も6万5,000石から5万石に減らされた。明和7年(1770年)12月晦日、54歳で死去。法号は義与仁譲興院。
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