小笠原信胤
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 正徳5年12月18日(1716年1月12日) | |||
死没 | 延享2年6月29日(1745年7月28日) | |||
別名 | 源十郎(幼名) | |||
戒名 | 竜台院殿賢厳義哲大居士 | |||
墓所 | 東京都台東区松が谷の海禅寺 福井県勝山市の開善寺 |
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藩 | 越前勝山藩主 | |||
官位 | 従五位下、左衛門佐 | |||
氏族 | 本多氏→小笠原氏 | |||
父母 | 父:本多忠統、養父:小笠原信成 | |||
兄弟 | 本多康桓、小笠原信胤、本多忠篤、 本多忠永、本多康政 |
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妻 | 正室:永井直陳の娘 | |||
子 | 実子なし、養子:小笠原信房 |
小笠原 信胤(おがさわら のぶたね)は、越前勝山藩の第4代藩主。
正徳5年(1715年)12月18日、伊勢神戸藩の初代藩主・本多忠統の次男として生まれる。享保15年(1730年)に第3代藩主・小笠原信成の末期養子となり、信成が間もなく死去したため、家督を継いで第4代藩主となった。享保16年(1731年)2月26日に元服する。
しかし大坂加番に任じられたことによる出費、若年のために家中で主導権をめぐっての内紛が起こるなどの混乱続きの中、藩政を顧みることもできずに寛保元年(1741年)からは病気に倒れ、延享2年(1745年)6月29日に死去。享年31。
実子が無かったため、第2代藩主・小笠原信辰の子である小笠原信房が養子として後を継いだ。
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