小笠原長矩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小笠原 長矩(おがさわら ながのり)は、三河吉田藩の第2代藩主。
|
||||
時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 元和10年1月24日(1624年3月13日) | |||
死没 | 延宝6年2月8日(1678年3月30日) | |||
別名 | 千勝丸(幼名) | |||
戒名 | 泰雲院殿宝峯正印大居士 | |||
墓所 | 愛知県豊橋市の臨済寺 | |||
官位 | 従五位下、山城守 | |||
藩 | 三河吉田藩主 | |||
氏族 | 小笠原氏 | |||
父母 | 父:小笠原忠知、母:多賀光定の娘 | |||
兄弟 | 小笠原長矩、小笠原長敦、小笠原長定、 小笠原長秋、小笠原長一 |
|||
妻 | 正室:菅沼定芳の娘 | |||
子 | 小笠原長祐、小笠原長重 |
元和10年(1624年)1月24日、初代藩主・小笠原忠知の長男として江戸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去で家督を継いで第2代藩主となる。このとき、弟の小笠原長定に3,000石、小笠原長秋に2,000石を分与したため、自らは4万石を領することになった。なお、家督相続と同時に奏者番に任じられた。
寛文6年(1666年)7月19日に寺社奉行に任じられ、延宝6年(1678年)2月6日まで務めた。藩政では新田開発に尽力している。延宝6年(1678年)2月8日に死去。享年55。後を子の小笠原長祐が継いだ。
|
|
|