豊橋市
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豊橋市(とよはしし)は、愛知県の南東部にある都市で、東三河地方の中心都市である。東三河の人口の約半数を占める中核市である。1906年に市制施行。ヤマサのちくわと路面電車の街として知られる。
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[編集] 概要
中世から江戸時代まで市の中央域は吉田(よしだ)と呼ばれていた(吉田という地名は、当時全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。また、明治維新後も同様の理由で、明治政府から全国にあって紛らわしいとのことから、改名を要求され、吉田にある豊橋という橋の名にちなみ豊橋としている。吉良町の名鉄吉良吉田駅のほうが現存の名前としては著名。)
吉田は豊川と朝倉川の合流地点であり、渥美郡、宝飯郡、そして八名郡の境目に当たる。江戸時代には吉田藩の城下町、吉田宿の宿場町、豊川水運で栄えた湊町であった。1869年(明治2年)に、吉田から豊橋に改称した。
市徽章は、徳川時代末、吉田城に八代君臨した長沢・松平・大河内(ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた徽章の千切(ちぎり)である。
市民は、「豊橋」を「とよはし」ではなく「とよはし」と平板に発音することが多い。
三河港と豊川用水を擁し、貿易港と農業を主軸とする。16世紀の吉田城(今橋城)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道53次の吉田宿・二川宿があり、幕末には7万石と岡崎藩・西尾藩を超え、旧三河国内では最大の勢力であったもよう。
又、講談・浪曲の「藤堂高虎、出世の白餅」で、青年期の藤堂高虎(当時、与右衛門)が三河餅を無銭飲食して、餅屋の吉田屋彦兵衛に故郷に帰って親孝行するようにと諭され、路銀まで与えられた三河国吉田宿は、この豊橋である。「藤堂高虎(伊勢津藩初代藩主)の旗指物は、餅三つ。」といわれているが、この名残で、今でも豊橋では、祝事に紅白の餅、または紅白の饅頭を配ることが多い。
豊橋の名につき以下に述べる。明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の三つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」と言う藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。
[編集] 橋(豊橋ないしは吉田大橋)について
豊橋市の名は川に架かる豊橋(吉田大橋)にちなんで付けられた。以下に橋と川について解説する。
[編集] 初代大橋酒井忠次架橋説
以下の三州吉田記の記述にあるように、酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(東関紀行・海道記・阿仏尼のうたたねの記および十六夜日記)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。なお、1505年築城~1522年まで今橋城(後の吉田城)と呼ばれていたことから、今橋という橋がそれ以前に存在したする説があるが史料の提示もなく間違いである。また、今橋という城名から、当時やそれ以前に今橋という地名だったとする説があるが、三河国聞書には、1498年吉田川という記述があり、当地が吉田と呼ばれていたことは間違いないようだ。三河国で橋といえば、八橋が上記の史書にも登場するが、この八橋も橋ではなく、湿地を渡る板のようなものだったらしく、橋の付いた名前が必ずしも、実際の河川を渡るための旅人用の橋に由来するわけではない。
[編集] 初代大橋鎌倉時代架橋説
初代の大橋は鎌倉時代であったという説がある。鎌倉時代の東海道は現在と異なり、現在地(城の辺り)より北で豊川を渡っていた。今橋城築城時、豊川と朝倉川の合流地点には既に「今橋」という橋があり、今橋城はその橋に由来して付けられたと言う。しかし、城が攻められ、「今橋(いまはし)」の音が「忌まわし(いまはし)」に通じ縁起が悪いと言うことで、大永2年(1522年)縁起の良い「吉田城」へ変更されたと言う。
[編集] 両説に異論の無い部分
徳川氏の武将の酒井忠次が、元亀元年(1570年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。その後、池田輝政が、船町を整備し前城主・酒井忠次が吉田川(豊川)に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。「三州吉田記」に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、天正19年(1591年)この土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。
この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよばし(豊橋:濁音)と名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋と、再び名付けた。
[編集] とよかわ(清音)豊川・とよがわ(濁音)豊川の違い
混同して記載される資料も多いため、以下詳細に記す。とよかわ(清音)豊川というのは、古代律令制の三河国宝飯郡豊川郷から由来する。鎌倉時代になって、鎌倉街道が整備されると、豊川宿として機能した。鎌倉時代の史書では、海道記に、豊河の宿。東関紀行に、豊川といふ宿。と記載される。そして、現在の愛知県豊川市に至る。
とよがわ(濁音)豊川は、古代律令制では、飽海川(あくみがわ)と呼んだ。この飽海(あくみ)というのは、渥美郡のことで、7世紀までは、飽海(あくみ)と書いたことが木簡から確認されている。その後、中世になって、室町時代から江戸時代まで、吉田川と呼称したことが、三河国聞書から確認できる。中世から江戸時代まで、豊橋は吉田と呼ばれていた。明治以降に吉田を豊橋と改めた後、川の呼称もとよがわ(濁音)豊川となった。
[編集] 地理
愛知県の南東部に位置している。渥美半島の付け根部分であり、豊橋平野の上に市域が広がっており、高い山はほとんどない(主な山は北東部の石巻山(358メートル)など)。南部は高師原、天伯原と呼ばれる台地となっている。市内を、豊川、梅田川などが流れ、北東部は低い山々(弓張山系)が存在し、静岡県との境界を形成している。市西部の豊川、梅田川河口は三河湾と、市南部沿岸は太平洋と接している。
太平洋岸は表浜海岸(遠州灘)と呼ばれ、ウミガメの産卵で知られる。三河湾と接する地域は大規模な埋め立て地があり、工業地の他、神野新田など穀倉地帯となっている
中心部を東海道が横断し、吉田宿、二川宿など古くから城下町、宿場町として栄えた。現代でも東海道沿いに中心部を国道1号、JR東海の東海道新幹線、東海道本線、名古屋鉄道の名古屋本線が通っている。三河湾岸の三河港は、自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっている。
気候は比較的温暖であり、降雪も少ない。太平洋(遠州灘)に面しているため、風が強い傾向がある。
[編集] 隣接している自治体
[編集] 歴史
[編集] 原始時代から弥生時代まで
縄文時代の遺跡として嵩山(すせ)の蛇穴遺跡など数件が、弥生時代の遺跡として瓜郷遺跡がある。市域に流れる川の流域には4世紀から7世紀頃の古墳(円墳、前方後円墳)も多く発見されている。
なお、豊橋市牛川町で1957年と1959年に約十万年前のものとされる人骨が発見され、牛川原人(牛川人)として紹介されていたが、2001年にお茶の水女子大学の教授である松浦秀治がその骨をフッ素年代測定法で調査したところ、ナウマンゾウのすねの骨という結果が出た。そのため人骨である可能性は低いとされる。
[編集] 奈良時代から鎌倉時代まで
律令制(国郡制)の下で、三河国の渥美郡、宝飯郡、八名郡に属したとされる。律令制の下で班田制が敷かれていたとされる遺跡が、嵩山や賀茂などで見つかっている。また、初期の東海道が設置され、飽海川(あくみがわ、現在の豊川)河口には渡し場が置かれた。これは飽海川の渡しと呼ばれ、後に志香須賀(しかすが)の渡しとして『枕草子』などでも詩が詠まれており、よく知られている。飽海川はその後、吉田川に改称され、明治以降に豊川に改称された。「豊川」とは、現在の豊川市にあった古代集落・宝飯郡豊川郷を指す。
[編集] 室町時代から安土桃山時代まで
- 概説
豊橋市を中心とした東三河地域は、西三河の徳川氏(松平氏)、駿河の今川氏のような1国単位を支配領域とする戦国大名は出現せず、1郡内で複数勢力が乱立する中小土豪割拠地域であった。いわば、戦国時代というべき時代は存在せず、室町時代の旧権威の体制を保持した状態であり、東の今川氏、西の徳川氏(松平氏)の介入を招いた。
今橋城(吉田城)築城以後、今川氏、松平氏、地元土豪と支配者がたびたび入れ替わり、今川義元の桶狭間敗死以後、今川氏から独立した西三河の徳川家康が、東三河に侵攻し、三河国は統一される。吉田城には、酒井忠次が入城し、吉田川(豊川)の関屋の渡し口に、土橋を始めて架橋した。
- 詳説
室町時代になると、幕府の任命した守護職の被官や地頭職を得た土豪が勢力を拡大し始め、荘園制度は衰退した。
応安年間(1368年-1375年)に三河守護職に補任された一色氏の勢力が東三河地方にも浸透し始めた。しかし1439年(永享11年)関東で永享の乱に敗れた鎌倉公方足利持氏家臣一色持家(刑部少輔)が三河国に亡命、守護職一色義貫は彼を保護したことが原因で翌12年将軍足利義教に粛正され、三河守護職が阿波屋形細川持常に代わられると前守護一色義貫の子義直と新守護細川氏との間に激しい紛争がおこった。当時、一色時家は宝飯郡長山に一色城(後の牛久保城)を構え、また渥美郡は郡代一色政照(七郎)が支配する。
応仁の乱の末期、1477年(文明9年)に長山一色城主、一色時家は、家臣の波多野全慶に殺された。翌1478年(文明10年)細川氏の画策により一色義直は三河国内の支配権を放棄させられた。 すると渥美郡の一色政照も1481年(文明13年)に家臣戸田氏により隠居させられて支配権を委譲した。その結果、一色氏の勢力は東三河においてほぼ消滅した。
1493年(明応2年)12月波多野全慶は、同じく一色時家の家臣である牧野古白と灰野原合戦(豊川市)に及び敗死した。牧野古白は時家に代わり一色城主となったが、渥美郡田原に田原城を築城して勢力を拡大していた戸田氏と勢力を争うことになる。これが更に戦国大名今川氏の介入を招き、東三河地方は、徳川家康により東・西三河の統一をみるまでの戦国動乱の時代に入った。
また、古白が一色城主となった1493年(明応2年)は田原城主戸田宗光によって二連木城も築かれた(豊橋市仁連木町)。1505年(永正2年)になると、今川氏親は西の松平氏に対抗するために牧野古白等に命じて、豊川左岸(現、豊橋市内)に今橋城を築かせた。城主牧野古白は城下の整備をすすめ後の豊橋市地域の礎を築いたが、松平氏との内通の疑念から1506年(永正3年)今川氏親に今橋城を攻められて敗死した。これを今橋合戦という(但しこれには異説があり、牧野古白は、松平氏と合戦に及び敗死したとするものもある)。
この今橋城は、その後も戸田氏、松平氏、今川氏配下の牧野氏などによって、争奪戦が繰り広げられた。1522年(大永2年)に、古白の嫡流となる牧野信成は、戸田氏に奪われていた今橋城を奪還して、吉田城と改名した。
西三河の松平清康(家康の祖父)は、1529年(享禄2年)、宝飯郡伊奈城主・伊奈本多氏を案内として、吉田城を攻略。援軍として駆けつけた真木宗次郎の力戦もむなしく落城、牧野信成等は討ち死にした。これを境に豊橋市の要部は、牧野氏の勢力圏から、松平氏の勢力圏となった。
しかし、1535年(天文4年)に守山崩れで松平清康が家臣に討たれると松平家は内紛で混乱し、東三河は再び国人の割拠に戻るが、田原城主戸田康光により、徳川家康(松平竹千代)人質奪取事件が発端で今川氏の三河遠征が実施され、1549年(天文18年)までには東三河と西三河の大半が今川家の支配下に置かれた。今川氏は伊東左近(元実)ついで小原鎮実を吉田城代とし、これを拠点に東三河支配を進めた。
1560年(永禄3年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城を奪還し、翌年4月には東三河に進攻、今川氏を三河国から駆逐、1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将小原鎮実は遠江国に撤退した。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの牛久保六騎も徳川家康の帰順の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ統一された。
1565年(永禄8年)3月、徳川家康は吉田城には、家臣の酒井忠次を入城させ、後に、関屋の渡し口に土橋を架けた。(とよがわ;豊川への初架橋)
1590年(天正18年)、徳川家康が駿府から江戸に遷ると、池田輝政が吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。
今川氏親による東三河・西三河侵攻、松平清康による東三河侵攻・三河国統一、今川義元による東三河・西三河侵攻および徳川氏(松平氏)の家臣団化、今川義元の桶狭間横死後の徳川家康の独立・三河国統一となる。
吉田城に、家康の家臣の酒井忠次が入城し、東三河の旗頭となる。さらに、関屋の渡し口に土橋を架ける。(豊川への最初の架橋という)
1590年(天正18年)、徳川家康が駿府から江戸に遷ると、池田輝政が吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。
[編集] 江戸時代
関ヶ原の合戦の後、江戸時代に入ると、吉田藩が設置され、3万石から8万石程度の譜代大名が治めた。吉田は城下町、湊町(吉田湊)、宿場町(吉田宿)として栄え、二川(豊橋市二川町、大岩町)も二川宿として栄えた。吉田大橋(豊橋)は東海道におけるその重要性から、江戸幕府直轄の橋として管理された。
1752年には、藩主松平伊豆守信復(のぶなお)により吉田城内に藩校時習館が置かれた。
幕末になると、1867年旧7月27日、牟呂村(豊橋市牟呂町)で伊勢神宮のお札が降ったと言われる。
江戸時代、最後の藩主は、大河内長沢松平家の松平伊豆守信古(のぶひさ)である。そのため、今の市役所の徽章が大河内長沢松平家の徽章になっている。
[編集] 明治から第二次大戦まで
版籍奉還直後の1869年旧暦6月、吉田は豊橋と改名された。1871年8月、廃藩置県により豊橋県となり、11月には額田県、1872年に愛知県に統合された。大区小区制が施行され、豊橋は第十五大区として管理され、愛知県の豊橋支庁が置かれた。1878年制定の郡区町村編制法により郡や町村が置かれ渥美郡豊橋町となり、1889年に郡制及び町村制を施行し、1906年には及び市制を施行した。1932年に、下地町、高師村、牟呂吉田村、下川村、石巻村多米を編入した。
1871年、吉田城趾に名古屋鎮台が置かれた後、1885年には大日本帝国陸軍歩兵第十八連隊が置かれたほか、1908年から1925年までは高師原に帝国陸軍第15師団が置かれるなど軍都として繁栄した。また明治から昭和の初めまでは養蚕業、製糸業が非常に盛んであった。太平洋戦争の最中には、1944年12月7日の東南海地震と、1945年6月20日のB29約90機による空襲(豊橋空襲)によって、市街地の9割が焼失した。
1888年に東海道線が開通し豊橋駅が開業した。渥美線は1924年に高師~豊島間の開業後、1925年までに三河田原まで開業した。市電(豊橋鉄道東田本線)は1925年に開業した。
1899年動物園が豊橋駅前に開園した。(花田町、豊橋公園、大岩町へと移転を重ね現在に至る)
1931年豊橋初の百貨店として豊橋丸物(広小路通。1950年に駅前大通に移転、1973年に西武との提携で豊橋西武となる)、豊橋市公会堂(八町通)が竣工した。
[編集] 戦後
終戦後、将来の発展を見越し市街地の大規模な区画整理が行われ、又食料対策として高師原、天伯原の開墾と神野新田等の自作農化が行われた。一方で、日本紡績(現・ユニチカ)を始めとした工場誘致活動を積極的に行い、郊外に工場が建てられていった。農工業の発展で新たな水源が求められていた中、1968年には豊川用水が完成し農業・工業の発展に特に寄与した。
1970年代から30年にも渡って、全国の都市の中で農業粗生産額第一位を続けた。1959年に完成した豊橋港(現在は三河港の一角)は、三河港の中心として発展した。1980年代以降、市街地の郊外化が進んだ。1999年、中核市に指定された。
2006年8月1日に市制百周年を迎えたのを受け、2005年8月から2006年12月まで、百周年記念事業「とよはし100祭」を実施、市と民間合わせて450を数えるイベントが市内各地で行われた。「とよはし100祭」における参加者及び来場者総数は、延べ200万人に上る。[1]
[編集] 行政
[編集] 町村制施行以降の年表
- 1889年(明治22年)10月1日 町村制施行により渥美郡豊橋町となる。
- 1895年(明治28年)1月25日 渥美郡豊橋町は渥美郡豊橋村を合併する。
- 1906年(明治39年)7月15日 渥美郡豊橋町は、渥美郡豊岡村及び花田村を合併する。
- 1906年(明治39年)8月1日(八朔) 市制施行により豊橋市となる(愛知県第二番、全国第六十二番、人口37,635人)。
- 1932年(昭和7年)9月1日 宝飯郡下地町、渥美郡高師村、牟呂吉田村、八名郡下川村及び石巻村のうち大字多米の区域を編入。
- 1940年(昭和15年)10月 第5回国勢調査人口:142,716人
- 1945年(昭和20年)10月 人口調査:105,840人
- 1955年(昭和30年)3月1日 宝飯郡前芝村、渥美郡二川町、高豊村及び老津村ならびに八名郡石巻村を編入。
- 1955年(昭和30年)4月1日 八名郡双和村のうち大字賀茂の区域と渥美郡杉山村のうち大字杉山の区域を編入。
- 1955年(昭和30年)10月 第9回国勢調査人口:215,515人
- 1993年(平成5年)6月 人口が35万人突破。
- 1999年(平成11年)中核市に指定される。
- 2005年(平成17年)11月 市公式統計で登録人口が38万人突破。
[編集] 歴代市長
- 初代(1908年~1912年) 大口喜六
- 2代(1912年~1913年) 高橋小十郎
- 3代(1913年~1914年) 柳原弁吾
- 4代(1914年~1916年) 大口喜六
- 5、6代(1917年~1923年) 細谷忠男
- 7代(1924年~1925年) 吉川一太郎
- 8代(1926年~1930年) 田部井勝蔵
- 9代(1930年~1934年) 丸茂藤平
- 10代(1934年~1938年) 神部小三郎
- 11代(1938年~1940年) 大口喜六
- 12代(1941年~1945年) 近藤寿市郎
- 13代(1945年~1946年) 水野保
- 14代(1946年~1947年) 横田忍
- 15、16代(1947年~1952年) 大竹藤知
- 17、18代(1952年~1960年) 大野佐長
- 19~22代(1960年~1975年) 河合陸郎
- 23、24代(1975年~1983年) 青木茂
- 25~28代(1983年~1996年) 高橋アキラ
- 29~31代(1996年~) 早川勝
[編集] 財政状況
2000年(資料で確認できる範囲)から2005年まで、普通交付税交付団体であった。「三位一体の改革」により交付税の削減が行われ、2006年度には交付税不交付団体になった。
[編集] 住宅の耐震強度問題
住民サービスとして豊橋市木造住宅耐震改修費補助事業を行っている。しかし、2006年度に耐震診断ソフトが大幅に変更され、それ以前のソフトで住宅耐震改修した市民の住宅の耐震強度が満たされていないということが起こっている。
[編集] 政治
[編集] 市政
豊橋市役所 〒440-8501 豊橋市今橋町1番地
[編集] 市議会
市議会議員の定数は40人。定例議会は3月、6月、9月、12月に開催される。
[編集] 市議会の構成
議会を構成する委員会は大きく3つ区分で分けられる。4つの常任委員会はそれぞれ10名ずつ所属する。
- 常任委員会(40名)
- 総務委員会(10名)
- 環境経済委員会(10名)
- 福祉教育委員会(10名)
- 建設消防委員会(10名)
- 議会運営委員会(11名)
- 特別委員会
- 予算特別委員会
- 一般会計予算特別委員会
- 決算特別委員会
- その他特定目的の委員会
[編集] 消防
消防組織法に基づき、消防機関(消防本部、消防団)が置かれる。
[編集] 消防署
- 豊橋市消防本部(豊橋市役所内)イメージキャラクター「ヒケッシー」(恐竜)。豊橋市消防長以下、消防吏員を置く。
- 中消防署 豊橋市東松山町23番地
- 東分署
- 前芝出張所
- 石巻出張所
- 南消防署 豊橋市曙町字南松原118番地
- 西分署
- 二川出張所
- 大清水出張所
- 中消防署 豊橋市東松山町23番地
[編集] 消防団
- 頂点に消防団長(1人)が置かれる。
- 消防副団長は8人で、第一から第八方面隊の各方面隊の隊長を兼任する。各方面隊は2人の副隊長(分団長格)を置く。
- 小学校の校区を基本として、分団を置く。分団長、副分団長、部長、班長、団員。
[編集] 県政
[編集] 県政の豊橋市における拠点
- 愛知県東三河総合庁舎
- 〒440-8515 豊橋市八町通五丁目4番地
- 通称、東三事務所(とうさんじむしょ)
[編集] 愛知県議会議員
豊橋市から選出される愛知県議会議員の定数は5人である。
[編集] 警察
- 豊橋警察署 豊橋市八町通三丁目8番地
[編集] 国政
小選挙区は愛知15区にあたる。
[編集] 司法
[編集] 裁判所
3つの裁判所が同じ庁舎に存在する。所在地は豊橋市大国町110番地。地方裁判所と家庭裁判所の豊橋支部の管轄範囲は、豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、田原市、宝飯郡、北設楽郡である。また簡易裁判所の管轄は豊橋市、豊川市、蒲郡市、宝飯郡である。
[編集] 検察庁
検察庁はすべて豊橋市大国町111番地の「豊橋合同庁舎」の最上階である。
[編集] 弁護士会
愛知県弁護士会東三河支部 (会館所在地、豊橋市大国町83番地)
[編集] 刑務所
名古屋刑務所豊橋支所が今橋町に置かれている。
[編集] 経済
かつては、製糸・紡績業が盛んで、戦前の製糸生産量は全国一であった。
キャベツや白菜などの野菜の生産が盛んであり、農業産出額は約500億円に上り、隣接する田原市に次いで県内第2位、全国でも5番目となる。(農林水産統計、平成17年)
[編集] 市下に本社を置く企業
- フォルクスワーゲン グループ ジャパン
- 東海漬物(「きゅうりのキューちゃん」が有名。)
- サンビシ醤油、つゆ等の調味料
- 永井海苔
- サーラ・コーポレーション
- 武蔵精密工業
- 精文館書店
- 豊橋鉄道
- ヤマサちくわ
- めいほうぐるーぷ
[編集] 商業施設
- 花田町(豊橋駅)
- 豊橋ステーションビルカルミア
- ホテルアソシア豊橋
- サーラ再開発ビル(建設中 = ホテル、オフィス、商業施設等が入る複合ビル)
- 駅前大通
- 豊橋丸栄
- 名豊ビル
- 開発ビル
- ときわ通り
- WALTZトキワ店
- 向山町
- アピタ向山店
- 前田南町
- バロー豊橋前田店(建設中)
- アクトス豊橋店(建設中)
- 柱五番町
- ネッツトヨタ豊橋店
- 藤沢町
- 野依町
- ジャスコ豊橋南店
- 山田町
- カーマ豊橋山田店
- ジップドラッグアーパスドラッグ山田店
- スーパーアツミ山田店
[編集] 港湾
豊橋を中心とした三河港は国内屈指の国際貿易港である。特に自動車の輸出入は金額・台数とも全国第一位であり、ドイツのブレーマーハーフェン港と並ぶ自動車輸出入港である。トヨタ、三菱自動車、スズキ、ダイムラー・クライスラー、フォード、アウディ、ポルシェ、フォルクスワーゲンなど。
[編集] 姉妹都市・提携都市
[編集] 海外
[編集] 地域
[編集] 三遠南信
豊橋市を初めとする東三河地方は、地理的に政令市の浜松市など遠州西部や、飯田市などの伊那地域(長野県南端部)との交流関係がある。三遠南信という地域圏を自称している。
[編集] 在住外国人
近くの豊田から浜松にかけての自動車産業を中心に労働力の需要が高いため、ブラジルを初めとした南米系の外国人労働者が増え、2006年12月1日現在の豊橋市における外国人登録者数は19,082人に昇る。愛知県内では、名古屋市(約6万)に次いで外国人が多い。人口に占める外国人比率は、5%に達する。
[編集] 学校
[編集] 大学・短期大学
- 国立
- 私立
[編集] 専門学校
- 豊橋市立看護専門学校
[編集] 高等学校
- 愛知県立
- 豊橋市立
- 私立
[編集] 高等専修学校
- 豊橋市立家政高等専修学校
[編集] 中学校
- 豊橋市立
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- 私立
[編集] 小学校
- 豊橋市立
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[編集] 養護学校
[編集] 聾学校
- 愛知県立豊橋聾学校
[編集] 各種学校
[編集] 主な施設
[編集] 博物館
- 豊橋市美術博物館
- 豊橋市自然史博物館
- 豊橋市地下資源館
- 豊橋市二川宿本陣資料館
[編集] 動・植物園
- 豊橋総合動植物公園(のんほいパーク)
[編集] 文化施設
- 愛知県豊橋勤労福祉会館(アイプラザ豊橋)
- 豊橋市民文化会館
- 豊橋市公会堂(国登録有形文化財)
- 豊橋市中央図書館
- 豊橋市配本センター
- 豊橋市視聴覚センター
- ライフポートとよはし
- ポートインフォメーションセンター「カモメリア」
- こども未来館「ここにこ」(建設中 2008年7月完成予定)
[編集] 医療・福祉・保健衛生施設
- 豊橋市保健所(豊橋市富本町字国隠20番地-8)
主な医療機関
2010年までに、保健所・保健センター、乳幼児関連の地域療育センター(仮称)、休日夜間急病診療所の三施設が旧国立豊橋病院跡地(中野町)に再整備される予定である。
[編集] スポーツ施設
[編集] マスメディア
豊橋に拠点を置くマスメディアは、FM放送局1社、ケーブルテレビ局1社、新聞社2社である。なお、地元大手メディアの中日新聞社、東海テレビ放送、中部日本放送、メーテレ、中京テレビ放送は市内に取材・営業拠点等の業務の為、支社,支局を置いている。なおその他の新聞社も置いているところがある。
かつてはCBCラジオが「向山スタジオ」から独自の放送を行っていたが、2001年3月にスタジオを閉鎖した
[編集] 放送局
- 豊橋ケーブルネットワーク(ティーズ。ケーブルテレビ局)
- 豊橋市小畷(こなわて)町596番地を拠点とする。
地上アナログ・デジタルテレビジョン、NHKFM、FM愛知、ZIP-FMの中継局を備える豊橋中継局は、岡崎市本宮山にあり、愛知県のアナログ・デジタルテレビジョンはUHFアンテナ1本のみで全て視聴可能である。三重テレビはほぼ市全域、静岡県のテレビ放送は浜松中継局より一部地区で視聴可能。
[編集] 新聞社
[編集] 交通
東西の幹線として東海道本線・国道1号が通り、南北の連絡線として飯田線・国道151号などが通る。このため、三遠信における交通の要衝ともなっている。
[編集] 鉄道
[編集] 概説
中心となる豊橋駅は花田町にあり、全国初の民衆駅である。 市内の鉄道は、東海旅客鉄道(JR東海)、名古屋鉄道(名鉄)、豊橋鉄道の三社によって運営されている。
東海道新幹線が停車し、市内及び、周辺都市への玄関口となっている。 飯田方面にはJR東海飯田線が、田原方面には豊橋鉄道渥美線が伸びている。市内には豊橋鉄道の路面電車(東田本線)が走っており、市民の足として親しまれている。
[編集] 鉄道網一覧
[編集] 道路
[編集] 概説
市の中心部を国道1号が縦断しており、自動車交通の中心となっている。市内の国道1号は信号機が多く、全て平面交通であるため、一部の区間では慢性的な渋滞に悩まされている。
市街地を避けて国道1号と平行する、高規格道路の豊橋バイパス、豊橋東バイパス(国道23号(名豊道路)の一部をなす)が、上記の渋滞緩和へ大きく期待されている。豊橋バイパス(東三河IC-野依IC区間)の大部分は開通したが、それに続く豊橋東バイパス(野依IC-東細谷IC区間)は現在建設が進められており、全線開通は2009年の予定となっている。田原市方面の交通分散化のため、国道259号のバイパス化(一部区間)が現在進められている。
また、既存の幹線の再整備も行われている。環状線では豊橋環状線、東三河環状線の整備が、ゆっくりではあるが着実に整備が進められている。豊橋・豊橋東バイパスの各ICと市街地を結ぶ幹線の強化も行われている。
東名高速道路は、市域の北端を横断しているが、豊橋市内にはインターチェンジは設置されていない。このため、豊川IC(豊川市。豊橋からの所要時間は10-15分程)や音羽蒲郡IC(音羽町)、三ヶ日IC(浜松市)、国道1号のバイパス(潮見・浜名・浜松バイパス)を経由して浜松IC(浜松市)を利用する必要がある。
[編集] 道路網一覧
- 東名高速道路
- 国道1号
- 国道23号豊橋バイパス
- (前芝IC) - (豊川橋南IC) - 神野新田IC - 豊橋港IC - 大崎IC - 大清水IC - 野依IC
- 国道23号豊橋東バイパス(建設中)
- 野依IC - 七根IC - (小松原IC) - (細谷IC) - (東細谷IC)(国道1号潮見バイパスに接続)
- 国道42号
- 国道259号
- 国道362号(本坂トンネル)
- 愛知県道31号東三河環状線
- 愛知県道380号豊橋一宮線
- 県愛知県道386号平井牟呂大岩線
- 愛知県道393号豊橋港線
- 愛知県道502号豊橋環状線
[編集] 観光
[編集] 名所・遺跡
- 吉田城跡
- 瓜郷遺跡
- 前芝の燈明台
- 二川宿本陣資料館
- 嵩山の蛇穴
- 豊橋市美術博物館
- 牛川の渡し
- 豊橋市公会堂
- 豊橋ハリストス正教会
- 普門寺
- 岩屋観音
- 赤岩寺
- 湊町神社
- 聖眼寺(軍記物の牛窪記等で、徳川家康の金扇の馬印の発祥を主張している。松尾芭蕉の句碑も有る。)
徳川家康の扇の馬印について、柳営秘鑑は本多忠高・忠勝父子からの譲渡とする記述に対して、牛窪記では、1563年吉田城攻めの際の、豊橋市下地の聖眼寺奉納の牧野氏由来の金扇とするなど、柳営秘鑑の記述に大きく矛盾する。この牛窪記は、牛窪(豊川市牛久保)の土豪の牧野氏とその地元を中心に描かれている軍記物であるため注意を要する。
[編集] 名産
[編集] 自然
- 葦毛湿原
- 賀茂しょうぶ園
- 石巻山
[編集] 祭り・イベント
- 春祭り(1月下旬~5月上旬)
- 鬼祭(重要無形民俗文化財)(2月10日・2月11日)
- 花しょうぶまつり(5月下旬~6月中旬)
- 納涼まつり「夜店」(6月毎週金・土・日)
- 豊橋祇園祭(7月第3金・土・日曜日)
- みなとフェスティバル(7月第3月曜日)
- 炎の祭典(9月第2土曜日)
- 羽田祭(10月第1土・日曜)
- 二川八幡神社例大祭(10月第2土・日曜日)
- 豊橋まつり(10月第3土・日曜日)
- 飽海人形浄瑠璃(11月第3日曜日)
- スロータウン映画祭(10月末~11月の土日、祝日、2002年- )
- 豊橋花祭り
- 朝市[2]
- 一五(イチゴ)の市:毎月1、5,11,15,21,25日(羽田八幡宮境内と参道)
- 二七(ニシチ)の市:毎月2,7,12,17,22,27日(西松山町)
- 三八(サンパチ)の市:毎月3,8,13,18,23,28日(前畑町)
- 四九(シク)の市:毎月4,9,14,19,24,29日(広小路4・5丁目)
- 六十(ロクト)の市:毎月6,10,16,20,26日(富本町、柱一番町)
[編集] 豊橋市を舞台とした作品
[編集] 映画
- 風に逆らう流れ者
- REX 恐竜物語
- 菊次郎の夏
- 1リットルの涙
- 早咲きの花
- 陽気なギャングが地球を回す
[編集] 豊橋市関連の有名人
[編集] 武家・大名
- 牧野古白(牧野古伯とも。元は牧野成時(まきのしげとき)。初代今橋城(後の吉田城)主)
- 戸田宗光(初代二連木城城主。戸田松平家ほか、大名、高家、旗本を出した戸田氏中興の祖。全久院を菩提寺とする)
- 酒井忠次(吉田城主。徳川四天王筆頭。東三河の旗頭)
- 松平康長(最後の二連木城主。戸田松平家の祖。後に松本城主)
- 池田輝政(吉田城主。吉田時代は照政。徳川家康の娘の婿。西国将軍)
- 松平信明(まつだいらのぶあきら。吉田城主。老中首座。小知恵伊豆)
- 大河内信古(おおこうちのぶひさ。最後の吉田城主)
[編集] 文化・芸術
- 菅江真澄(『菅江真澄遊覧記』江戸の文化人類学者)
- 村井弦斎(『食道楽』の著者)
- 澤井啓夫(漫画家)
- 栃久保操(画家)
- 中村正義(画家)
- 星野眞吾(画家)
- 松井守男(画家・レジオンドヌール勲章受章者)
- 富安風生(俳人)
- 丸山薫(詩人)
- 木藤亜也(『1リットルの涙』著者)
- 青樹明子(北京放送など中国のラジオキャスター、著述家)
- 井上靖(芥川賞作家。北海道旭川市出身。一時、豊橋に住む)
- 牧野圭一(漫画家。京都精華大学教授)
- 宮城谷昌光(小説家。時習館高校卒業)
[編集] 芸能
- 岩瀬立飛(ジャズドラマー)
- 大内順子(ファッションデザイナー)
- 大島渚(映画監督。京都市出身)
- 川合伸旺(俳優)
- 島田彩夏(フジテレビアナウンサー)
- 横田光幸(青森テレビアナウンサー)
- 喜多郎(シンセサイザー奏者)
- 杉田成道(フジテレビプロデューサー・『北の国から』)
- 野川さくら(声優)
- 平田満(俳優)
- 松平健(俳優)
- 宮野久美子(タレント・おニャン子クラブ)
- 大津美子(歌手)
- 勘解由友見(歌手)
- 北原ミレイ(歌手)
- 判治大介(歌手)
- 園子温(映画監督。愛知県立豊橋東高等学校卒業)
[編集] 学術
[編集] 政財界
- 太田房江(大阪府知事)
- 村田敬次郎(衆議院議員)
- 山本明彦(衆議院議員)
- 太田昭宏(衆議院議員、公明党代表。新城市生まれ、小学校から高校まで豊橋市)
- 神野信郎(中部ガス会長、中部経済連合会副会長)
- 内藤由治(ポッカ社長)
[編集] スポーツ
- 清川正二(水泳選手 ロサンゼルスオリンピック金メダリスト)
- 松下浩二(卓球選手)
- 武雄山喬義(大相撲力士)
- 山本左近(レーサー)
- 藤井淳志(プロ野球選手 中日ドラゴンズ)
- 森福允彦(プロ野球選手 福岡ソフトバンクホークス)
[編集] 関連項目
[編集] 外部サイト
- 豊橋市ホームページ
- 豊橋観光コンベンション協会
- 豊橋見て歩記ホームページ
- 筆でちくわ(豊橋情報サイト)
- 東三河コミュニティー(東三河及び近隣都市の情報ポータルサイト)
- 愛知県の自治体等
-
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