島津伊久
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島津伊久(しまづこれひさ、正平2年/貞和3年2月1日(1347年3月13日) - 応永14年5月4日(1407年6月9日)は南北朝時代の武将。島津氏第7代当主。総州家6代・島津師久の嫡男。
南北朝時代に分裂した総州家・奥州家は共通の外敵がいる間は協力し合っていたが、南北朝統一後は対立するようになった。大隅守護の奥州家島津元久が、薩摩守護の総州家伊久の領地の薩摩国内に城を建て、支配を強めたことが原因だったようである。
伊久は嫡男島津守久と仲違いをし城を囲まれたのを受け、奥州家島津元久は伊久と守久の仲介役をしてその場は収まった。その見返りとして、伊久は島津氏家宝を元久に譲った。
1401年、渋谷氏が伊久に味方したため奥州家・総州家は絶縁状態になり、幕府は伊久についたが、1404年に幕府の調停で和睦した。
1407年、伊久は死去し、子の守久が家督を継いだが、ほとんど権力がないため、その後幕府も奥州家元久の側につき元久を薩摩守護にした。1422年、守久は肥後に逃げて総州家は薩摩から去った。これにて総州家の薩摩支配は終わった。
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