島津忠長 (播磨家)
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島津忠長(しまづただなが、文亀元年(1501年) - 天文3年8月26日(1534年10月3日))は戦国時代の武将。越前島津氏第15代当主。左近将監。『越前島津氏正統家譜』、『越前島津家文書』(越前島津氏系図)に記載される最後の同氏当主である。法名高清。法号月峯院殿明阿高清大居士。
[編集] 生涯
天文3年(1534年)8月26日、播磨国朝日山の合戦にて赤松氏に属して浦上氏と戦い、討死(享年34)。
『播陽古城記』には、「忠長ハ竜野赤松村秀ト赤松範実ト不和君臣□□戦ヒ天文三年八月二十六日室津浦上景宗下知ヲナシ立岡山ヲ攻メ取ラントス 忠長ハ景宗ト戦ウ竜野赤松村秀聞キ付ケ直チニ兵ヲ遣ハシ忠長ヲ援ク送リトイヘドモ城兵カワキ忠戦シテ朝日山大日寺麓ニ討死ス」と記されている。
朝日山は、立岡山の約1キロメートル南東に位置し、山麓に大日寺がある。立岡山城(石蜘城)の忠長は篭城が不利と見るや、打って出て、朝日山にて戦死したものと考えられる。大日寺に、島津氏の墓はないが、朝日山の合戦では、大将格の人が戦死したと寺に伝わっており、毎年住職がまとめて供養を行っている。
朝日山(標高88m)は『播磨国風土記』における大法山で、風土記には「応神天皇がこの山で大法(だいほう:重大な法令)を発したので大法山という。斉明天皇の時(7世紀中頃)、大倭の千代勝部(すぐりべ)らが田をひらいて住んだので、いまは勝部岡(すぐりべのおか)と呼ぶ」と記されている。