島津忠長
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島津 忠長(しまづ ただなが、天文20年7月17日(1551年8月18日) - 慶長15年11月9日(1610年12月23日))は、戦国時代の武将。島津忠良の子・島津尚久の子で、島津義久と島津義弘の従兄弟に当たる。官位は図書頭。号は紹益。幼名は又五郎、鎌菊丸。
島津義久に仕えて家老となり、肝付氏・大友氏・伊東氏との戦いで大いに活躍して軍功を挙げた。しかし、1586年に高橋紹運が守る岩屋城攻めの総大将を務めた時には、わずか800にも満たない城兵の決死の反撃により4000人もの死傷者を出した上、豊臣秀吉軍の九州上陸までの時間をも稼がれてしまった。秀吉に降伏後は人質として上洛。1592年に島津歳久が自害に追い込まれ、首が京都の一条戻橋にさらされたとき、その首を取り返しに行ったという気骨のあるところを見せている。その後朝鮮出兵にも従軍し、泗川の戦いで奮戦した。この功績により宮之城領主に任命された。なお祁答院も領地として与えられている。
1600年の関ヶ原の戦い後は島津氏の代表として徳川家康と交渉に当たった。
1610年11月9日、宮之城にて死去。享年60。
法号:既成宗功庵主。墓所:宮之城の宗功寺。この忠長の系統が、後に宮之城島津氏となる。