廖立
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廖立(りょうりつ、生没年不詳)は、中国の三国時代における蜀漢の政治家。字は公淵。
武陵郡の人。劉備が荊州を支配した頃、家臣として取り立てられ、長沙の太守に任命された。この時、諸葛亮から龐統とともに「楚(荊州)の良才である」と評価されている。215年、荊州の領有をめぐり、蜀と呉が衝突したとき、呉の武将である呂蒙に急襲され、益州に逃亡した。劉備は廖立の行政手腕を高く評価していたため、逃亡した罪は問われず、逆に巴郡の太守に任命された。
しかし、自分の才能・名声は諸葛亮の次だと自負していたため、劉備の死後、李厳らの下に置かれたことに不満を持ち、蜀の要人たちをことごとく批判した。これに怒った諸葛亮によって庶人に落とされ、汶山郡に流された。その後は妻子と共に農耕で生計を立てながら暮らしていたが、234年に諸葛亮が死去したという知らせを聞くと、「私は結局蛮民となってしまうのだ」と言い、涙を流してその死を嘆いたという。配所で病没し、妻子は蜀に帰った。