張世傑
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出身は河北で、最初はモンゴルの家臣だったらしいが、罪を得て南宋に逃亡し、呂文徳にその優秀な軍事的才能を見出されて将軍となった。1275年には元軍の侵攻を一度は撃退したが、1276年に首都・臨安が陥落すると陸秀夫と共に前皇帝であった度宗の遺児を引き連れて脱出し、亡命政権を形成した。
その後も南宋の将軍として失地回復を図ったが果たせず、1279年に元軍の猛攻の前に幼帝と陸秀夫が自殺して南宋が滅亡するとベトナムに向かって再起を果たそうとしたが、その逃走の途上で台風に遭って船が沈没して溺死した。一説においては、陸に上がって助かろうと思えば助かったのに船に残り、死を覚悟したとも言われている。宋史においては、船が転覆する直前天に向かって「天が宋を滅ぼそうとするなら、この船を覆せ」と叫んだと記述されている。
張世傑は、文天祥や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人にまで挙げられている。