徳丹城
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徳丹城(とくたんじょう)は現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田にあった律令期の城柵である。もともとあった志波城を、水害を理由に弘仁2年(811年)、文室綿麻呂の建議により南10kmに移転・造営したものである。
沖積面の微高地に立地し、約350m四方となる。材木列で周囲を囲み、70~80mの間隔で櫓を建てていた。内部には官衙建物群があり、志波城の政治機能を引き継いだものと考えられる。
しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。
志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換として、熊谷公男や鈴木拓也らが取り上げている。
2006年7月31日に徳丹城跡内の井戸跡で、国内初となる木製の兜が発見されていたことが9月13日に矢巾町教育委員会から報道機関に公表された。過去の文献には木製兜の存在が記されており、その数も非常に多いと推定されていたものの、木材は腐食しやすく出土した例が無かった。