心中天網島
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心中天網島(しんじゅうてんのあみしま)は、近松門左衛門作の浄瑠璃。1720年12月6日、大坂竹本座で初演。3段の世話物。
同年に起きた、紙屋治兵衛と遊女小春の心中事件を脚色。愛と義理がもたらす束縛が描かれており、近松の世話物の中でも、特に傑作と高く評価されている。また、道行「名残の橋づくし」は名文として知られる。後に歌舞伎化。
「天網島」とは、「天網恢恢」という諺と、心中の場所である網島とを結びつけた語。近松は住吉の料亭でこの知らせを受け、早駕に乗り大坂への帰途で、「走り書、謡の本は近衛流、野郎帽子は紫の」という書き出しを思いついたという。
目次 |
[編集] あらすじ
紙屋の治兵衛には女房がいるが、遊女紀伊国屋小春と親しくなっていた。二人が曽根崎新地の河庄にいたところ、侍に扮した兄の粉屋孫右衛門がやってきて、小春と別れることを認めさせ、小春から起請を取り戻した。
女房のおさんは、小春の身請けの噂を聞き小春が死ぬつもりでいることを察し、身請けしようと金を用意する。だが父・左衛門に阻止されてしまう。
小春とあらかじめ示し合わせておいた治兵衛は、蜆川から多くの橋を渡って網島の大長寺に向かう。明け方、二人は髪を切った後、治兵衛は小春を刺し、自らはおさんへの義理立てのため、首を吊って心中した。
[編集] その他
1778(安永7)年に近松半二によって改作された「心中紙屋治兵衛」と、さらにその改作である「天網島時雨炬燵」をもとに現行の『河庄』と『治兵衛内』(時雨の炬燵)が作られた。現在では坂田籐十郎による原作通りの上演も行われている。
『河庄』は初代中村鴈治郎の当り役であった。初代実川延若と初代中村宗十郎の演じた治兵衛を自分なりに工夫して作り上げたものである。頬かむりをしての花道の出は絶品とされ、岸本水府は「頬かむりの中に日本一の顔」という有名な句に残している。和事のエッセンスが凝縮しており、二代目鴈治郎、現籐十郎へと伝えられ、大阪の成駒屋のお家芸(玩辞楼十二曲)の一つとなっている。
『河庄』における初代鴈治郎の素晴らしさは、大阪はもちろん東京の好劇家をも魅了した。1905(明治38)年歌舞伎座の上演ではあまりの評判に2日日延べをしたほどであった。
新派の花柳章太郎は治兵衛を演じようと独自の工夫を考えたが、「あの花道の出だけはどうしても鴈治郎から離れられない。」と脱帽し、六代目尾上菊五郎は、荒事風に足を割って足をにじらせる演技を見て「あのギバの足の運びは真似できねえ。」と歎息した。
『河庄』には孫右衛門とお庄という脇役が大きな役割を占めている。孫右衛門は町人であるが侍に変装している。その不自然さと滋味に富む演技が求められる。初代鴈治郎には二代目中村梅玉や七代目市川中車が、二代目鴈治郎には十三代目片岡仁左衛門、現籐十郎には十七代目市村羽左衛門など腕達者な役者がつきあった。お庄は「封印切」のおえんとともに歌舞伎の代表的な花街の女将(花車方という役柄)である。情けがあり色気の漂う雰囲気が求められる。近年では十三代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門)が得意としていた。
[編集] 登場人物
- 紙屋治兵衛
おさんという妻がいながら、遊女小春に恋する。一旦別れたものの忘れる事が出来ない。
- おさん
治兵衛の妻。
- 小春
曽根崎新地の紀伊国屋の遊女。おさんの心根を思い治兵衛から身を引こうとする。
- 粉屋孫右衛門
治兵衛の兄。おさんの苦悩を見かねて治兵衛と小春とを別れさせようとする。
- 太兵衛
治兵衛と張り合っている男。
お庄
曽根崎の店「河庄」の女将。