恭仁京
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恭仁京(くにきょう、くにのみや)は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国の地。現在の京都府木津川市加茂町に位置する。大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)とも。山城国分寺跡として、国史跡に指定されていたが、2006年11月17日の文化審議会答申により、恭仁宮跡に名称変更された。
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[編集] 概要
藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年)12月15日聖武天皇によって、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として太政大臣・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。
741年の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、宮殿が造られた。都としては完成しないまま743年の末にはこの京の造営は中止されて聖武天皇は紫香楽宮に移り、744年に難波京に遷都、さらに745年、都は平城京に戻された。
わずか3年余りの都であったが、日本の文化史上の重要事項である「国分寺・国文尼寺建立の詔」と、「大仏建立の詔」はこの都で出され、実行に移された。
[編集] 山城国分寺
宮城の跡地は山城国分寺として再利用されることになった。大極殿は金堂に転用されたという。
南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域を有していた。金堂の東側は国分寺の鎮守社である御霊神社の境内地だったとされる。
現在は広大な平原となっており、金堂(大極殿)礎石と七重塔礎石が地表にのこされている。
[編集] 関連事項
[編集] 交通アクセス
[編集] 周辺情報
[編集] 外部リンク
先代: 平城京 |
日本の首都 740年 - 744年 |
次代: 難波京 |
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