ノート:愛知県立旭丘高等学校
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[編集] 旭丘においての必修の科目について
私が通っていた頃(56期)は理科、社会の必修科目は生物、地学、物理、化学、現代社会、地理、日本史、世界史でしたが、58期生から新課程導入されてからは必修科目はどうなっているのでしょうか??現在必修科目の履修逃れが問題になっているため今までの掲載内容では誤解を招く恐れがあるので、どなたか情報提供をお願いします。—以上の署名の無いコメントは、Shounan-boy(会話・履歴)氏が[2006年10月27日 (金) 11:23(UTC)]に投稿したものです。
どうも、59期です。私たちの期の理科、社会の必修科目は 1年生-生物・理科総合B(≒地学)・地理 2年生-化学・物理・日本史・世界史・倫理 3年生-政治経済 となっていて、これはおそらくは新課程導入後このままだと思われます。—以上の署名の無いコメントは、219.50.83.210(会話/whois)氏が[2006年10月29日 (日) 13:58(UTC)]に投稿したものです。
61期=現役1年生です。理科総合Bは地学だけでなく生物もやりました。(地学:生物=7:3ぐらい)履修として「地学」という表記では理科総合が履修されていないということで未履修とも取れるのですがどうでしょうか?
[編集] ウィキペディアは、個人の主観や憶測に基づく評論をする場ではない。という件について
個人的な主観や憶測で評論しているとの指摘がありましたが、これは私の意見ではありません。依然書き込んだ内容は私が旭丘に入学した時に、担任の教員から言われたことで、生徒手帳にはちゃんと校則が記されているのになぜみんな私服を着てきているのかといったことを説明する際に言われたものです。
ただ、この内容に関してはなくてもまったく問題ないので削除していただいても結構です。—以上の署名の無いコメントは、133.27.4.239(会話/whois)氏が[ 2006年11月10日 (金) 3:41(UTC)]に投稿したものです。
- ノートに書く時には署名をしましょう。署名は、文末で上のメニューアイコンの右から2番目のサインのマークをクリックすれば表示されます。制服と私服云々の件は、ひとつの特徴ですし、記述自体に関しては何ら問題ないと思います。--124.87.38.227 2006年11月10日 (金) 03:47 (UTC)
[編集] 「最難関」をめぐる議論の論点整理
私Ramdoが「最難関」の記述を維持するのは、以下の理由によります。
- 「最難関」(愛知県の公立高校入試において一番難易度が高い、の意)には具体的な根拠がある。
- 具体的根拠とは県内各学習塾やテスト業者の発表するデータ(模試のデータ、試験当日の自己採点に基づく予想ボーダー・安全圏、合否追跡調査など)や各中学校の合否追跡調査・進路指導、県民の幅広いコンセンサス等である。
- 「最難関」という特定の語句にこだわっているわけではない。「県下一の難関」でも「入試難易度が一番高い」でもだいたいにおいて同じ意味であれば基本的にはどんな表現でも同じことである。実際に具体的表現は、2005年9月16日に「愛知県一の難関公立高校」という表現が登場して以来、この一年以上の間に何回も変遷している(また私は今回の騒動が起きるまで、それに一度も関与していない)。
- 「最難関」などの「愛知県の公立高校入試において一番難易度が高い」という意味の言葉を維持しないと、学校群時代に名古屋2群が「県下一の難関」であったこととの記述のバランスが取れない。「難関」「難関のひとつ」という表現では、「県下一の難関」(つまり最難関)ではない・なくなった、と解釈するのが普通であり、それは誤りである。
- 東京都における日比谷高校などと同じく、愛知県の公立高校入試制度の変更(大学区→学校群→複合選抜)に伴う旭丘高校の入試難易度・大学入試実績の変遷は、旭丘高校という学校を百科事典に記述する上で意味のあることだと考えられる。※日比谷高校の記述なども参照のこと。
以上です。--Ramdo 2006年11月17日 (金) 18:25 (UTC)
- 私の意見を書いておきます。「最難関」という単語は「歴史」のところで出てきた単語であり、文脈を考えなければいけない。学校群制度のときは2群は最難関で、3群も学校群の中堅ではあったのだから、「最難関の一つ」「難関」であったことは事実である。2群(最難関)+3群(最難関の一つ)から「復活して」「最難関の一つ」になったという文章は甚だおかしい。「最難関」という言葉をつかうのをやめるのなら、「歴史」の項をすべて削除するとか、学校群とか複合選抜の存在意義をあえて書かないとかしなければならない。それを無視して、「最難関」という単語のみに反応し、「最難関」→「賛美だ」と言ってただ言葉狩りをするのはいただけない。--らっと 2006年12月22日 (金) 15:44 (UTC)
[編集] 「一中御三家」の出典
「一中御三家」という術語をGoogle検索したところ、ウィキペディア日本語版ならびに引用サイトのみが引っかかりました(参照)。一部のGoogle検索至上主義のユーザーとは一線を画しているつもりですが、やはり気になるところです。「一中御三家」なる術語の出典を明示していただけないでしょうか?--Dojo 2006年11月18日 (土) 06:00 (UTC)
- 「御三家」云々以前に、「全国屈指の名門」との記載があります。この記載の投稿者はウィキペディアは何でないかを読んで欲しい。ウィキペディアはプロパガンダの場ではありません。--fromm 2006年11月19日 (日) 04:03 (UTC)
- 220.217.65.163氏より出典の提示がありましたので、「要出典」の脚注は外しておきます。また、「全国屈指の名門」がプロパガンダであるとの御意見ですが、思い当たる全国の他の高校の記事を参照したり、Wkipedia内をgoogle検索を掛けましたところ、学校の記事において「名門」という表現はごくありふれた表現ですので、とりあえず表現を復帰させます。「全国屈指の名門校」はそのような社会的評価が存在するということで、別に問題のない表現だと思います。そもそも出典も「日本の名門高校ベスト100」(新生通信、朝日新聞社)ですしね。--Ramdo 2006年11月19日 (日) 10:22 (UTC)
- 意味がわかりません。丁寧な発言をしてください。--fromm 2006年11月19日 (日) 17:03 (UTC)
>>Ramdoさん 「屈指」とは、指折り数える程度に優れているという意味です。このため単なる「名門」ならまだしも、「全国屈指の名門」はやはり言い過ぎだと思います。--fromm 2006年11月19日 (日) 17:09 (UTC)
- 明治3年に創立された「一中御三家」は十分「全国屈指の(指折り数える)名門校」に値すると思いますが、それが「全国有数の名門校」でもあるいはただの「名門校」(文脈上・表現上はやや釣り合わないか)でも、そのこと自体は(どちらがよりふさわしいかという)形容のズレの問題で、あまり重要ではありません。例えば、最初に「全国有数の名門校」と表現されていたとしても、私はそれを「全国屈指」(こちらの方がよりふさわしいとは思いますが)に何が何でも書き直そうとは思わないでしょう。逆に「全国屈指の名門校」をプロパガンダだと断じ(実際には必ずしもそうとは言えない)、「全国屈指」も「名門」もばっさり削除する行為は疑問です。それ以上に、記事全体や文脈を考えず、特定の単語を言葉狩りの如くとにかく削除する姿勢は理解に苦しみます。ちなみに「屈指」には「優れている」は必ずしも含意されません。[2006年11月20日 (月) 21:01 Ramdo]
>>らっと 他人に感想を要求する前に、自分で削除した中傷発言について謝罪するのが先でしょう。--fromm 2006年12月11日 (月) 04:28 (UTC)
[編集] 早慶を目指す学生が多いという件について
これに関しては明らかに間違い。最初から早稲田や慶應を目指している学生はほとんどいない。浪人して、国立に落ちた結果、早稲田や慶應に落ち着くといったケースは多いけど、そもそも現役時代に私立を受験している人がクラスでほんの数人しかいない。これは受験時に担任に確認したから間違いないはず。 --219.108.39.82 2006年12月29日 (金) 14:27 (UTC)
- 間違いなのであれば、そもそも、そうした記述自体が不要ではないのでしょうか?言外に、国公立を志望することが尊くて、早慶など私大はその次、という発想があるように思います。個人の見解として持っておくのはかまわないと思いますが、それではいっそのこと、元のそうした記述自体を削って問題ないと思います。だいいち、仮に、そのように国公立を志望して、合格せず私立にいく生徒がいたとして、これは勿論どの学校にも言えることですが、当然ながら、進路の選択は個人のによってまちまちです。それを、そもそも「~~な選択をする生徒が多い」などと、無理に根拠のありそうでない、また仮に「割と多い」などという傾向があったにせよ、それを学校のイメージに結びつけるかのごとく、多くの傾向というようにわざわざ記述することが、事典の客観性から言っても、訂正前も後も、それ自体不要と思いますので、その部分自体を削ることで問題ないと思います。結局、こうした「基準の危うい」記述があるから、不毛にもめる原因にもあるわけですから・・・。学校の記事は特にそうですが、何かを加えていくというより、客観性に照らして、評価や評論に結びつくものは、極力そぎ落としていくという観点が大事と思います。--124.87.38.227 2006年12月29日 (金) 15:16 (UTC)