戌の満水
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戌の満水(いぬのまんすい)は、1742年(寛保2年)に千曲川流域で発生した大洪水である。
[編集] 概要
寛保2年が壬戌(みずのえいぬ)の年にあたるため、被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ぶ。
長野県佐久地域の千曲川流域では旧暦8月1日(1742年8月30日)の被害が特に大きく、お盆の墓参りとは別に、その犠牲者供養のため現在でも新暦の8月1日に墓参をする風習が残っており、小中学校や企業も休日になるほどである。
その被害の大きさは、各地に伝承や文書記録、慰霊碑などで伝えられているが、流域全体で2,800人以上の死者を出し、田畑の流出も広範囲に渡る未曾有の大災害だった。
[編集] 経緯
- 1742年8月26日(27日)ごろから雨が降り始める。
- 1742年8月28日からの大風雨で、近畿・中部地方の諸河川が氾濫する。
- 1742年8月30日(旧暦 寛保2年8月1日)には台風が江戸を襲い、大名屋敷に至るまで水浸しにする。この日、千曲川にも大洪水が発生し、現在の佐久穂町などで集落全体が流出するなど被害が拡大する。
- 1742年9月1日 大風雨により利根川・荒川が大洪水になり、関八州全域に被害が及び、田畑の水没流出は80万石に及ぶ。
- 1742年9月6日 再び関東が洪水となる。
- 1742年9月21日 幕府(将軍徳川吉宗)が勘定方に水害地の巡視を命じる。
[編集] 影響
- 善光寺平の千曲川流域にある松代城下は、「日暮硯」で有名な恩田木工民親(松代藩家老)の25歳の年にこの戌の満水に襲われ、甚大な被害を被った。この被害救済のため松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、そのため藩政が疲弊し、真田騒動の一因となった。恩田木工による倹約財政を基本とした藩政改革はその収拾のためだった。
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