扶蘇
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扶蘇(ふそ、? - 紀元前210年)は秦の始皇帝の長男。姓は嬴(えい)。聡明で知られ、父や多くの重臣達から将来を嘱望されていた。
父の政治(焚書坑儒)に諫言したため怒りを買ってしまう。これにより、北方の騎馬民族・匈奴に対する国境警備の監督を命じられ、僻地の蒙恬の駐屯地へ遠避けられた。その後、巡幸中の始皇帝が急死し、始皇帝の喪は余計な混乱を招く事を防ぐべく秘密にされた。だが始皇帝にとっては扶蘇は大事な嫡子として、帝王学や武者修行の一環として蒙恬の下へ行かせたという考えであり、当然ながら後継には扶蘇を考えていたが、その側に随っていた末弟・胡亥、丞相・李斯、宦官・趙高の謀略に遭い、後継は胡亥とし、扶蘇には自害を進める偽の詔が渡された。扶蘇はその命に従い、自ら命を絶った。
一説では、小説や軍談などでは秦の最後の君主である子嬰は扶蘇の子であるといわれているが、史記の秦本紀によると扶蘇と子嬰が父子としての年齢的につり合わないのであり、さらに扶蘇の息子の場合、公子ではなく公孫(王孫)なのでありえない。