教科書疑獄事件
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教科書疑獄事件(きょうかしょぎごくじけん)は、1902年(明治35年)に発覚した、学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件である。この時期までの学校教科書は検定制だったが、この事件をきっかけに、第二次世界大戦終戦までの間、小学校の教科書が国定化された。
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[編集] 概要
[編集] 事件の背景
明治期の学校教科書については、当初は認可制だった。認可制の時代を経て、1886年(明治19年)に「教科用図書検定条例」を定め、翌1887年(明治20年)5月に「教科用図書検定規則」を定めたことで、教科書会社が発行した教科書を検定する制度が実施されていた。当時の小学校教科書は、各道府県ごとに審査委員を配置し、道府県単位で採択をおこなっていた。
そんな状況のもと、教科書会社による採択働きかけや売り込みなどの活動も激しくなっていった。教科書採択をめぐって不正行為があるという疑惑は、たびたび新聞紙上で取り上げられていた。
[編集] 事件発覚
1902年(明治35年)秋、教科書会社社長が列車内に自分の手帳を置き忘れた。手帳に贈賄の事実関係が記されていたことから事件が発覚。
当局は1902年12月17日、贈収賄事件の一斉摘発に乗り出した。県知事や文部省の担当者、府県の採択担当者、師範学校校長や小学校長、教科書会社関係者など、40道府県200人以上が摘発された。うち152人が予審に付され、116人が有罪判決を受けた。また、教科書疑獄事件に関係した会社が発行する教科書は採択禁止となった。
[編集] 影響
教科書疑獄事件発覚以前から、文部省は教科書国定化を計画していた。また帝国議会でも、事件発覚以前に複数回にわたり、教科書国定化の建議が提出されていた。
事件の発覚によって、政府は一気に教科書国定化をすすめることとなった。事件発覚翌年の1903年(明治36年)には、小学校教科書国定化の法案が成立した。
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