斎藤利三
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文3年(1534年) | |||
死没 | 天正10年6月17日(1582年7月6日) | |||
別名 | 内蔵助(通称) | |||
墓所 | 京都市左京区の真正極楽寺 | |||
主君 | 斎藤義龍→稲葉一鉄→明智光秀 | |||
氏族 | 斎藤氏 | |||
父母 | 父:斉藤利賢。母:明智光秀の妹(叔母とも) | |||
兄弟 | 斉藤利三、石谷頼辰、妹(長宗我部元親室) | |||
妻 | 正室:稲葉一鉄の従妹 | |||
子 | 斎藤利宗、斎藤三存、春日局 |
斎藤 利三(さいとう としみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
目次 |
[編集] 略歴
尾張国の織田信長の家臣である明智光秀の家老として有名である。
美濃斎藤氏の一族。父は斎藤利賢、母は明智光秀の妹、光秀の姪にあたるとする説もあるが、光秀と利三の年齢差から、光秀の叔母(斎藤道三室の姉妹)が正しいと推測されている。その母は、石谷光政に再嫁し、頼辰と女(長宗我部元親室)をもうけた。
正室は稲葉一鉄の従妹。子に斎藤利宗、斎藤三存。娘の福(春日局)は江戸幕府の第3代将軍となる徳川家光の乳母となる。通称は斉藤内蔵助。
[編集] 生涯
天文3年(1534年)、斉藤利賢の子として生まれる。
はじめ斎藤義龍、次いで稲葉一鉄に仕えた。しかし天正8年(1580年)に一鉄と喧嘩別れし、光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになったといわれている。光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏筆頭家老として用いられた。
天正10年(1582年)、光秀が織田信長に対する本能寺の変を計画し、それを秀満と利三だけに打ち明けた。秀満は賛成したが、利三はその無謀さから反対したと言われている。しかし主君の命令には逆らえず、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなったとされる。
しかし信長を殺した後、中国から引き返してきた羽柴秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍する。しかし敗れて逃走した。その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され、六条河原で斬首となった。享年49。磔にされたともいわれる。
首もしくは胴体は光秀とともに本能寺で晒されたと言われている。
[編集] 人物・逸話
- 光秀に仕えたのはわずか2年ほどであるにも関わらず、光秀古参の家臣より重用されている。これは単なる縁者関係だけではなく、利三が武将としての力量に優れていたことを示すものでもある。
- 現在の歴史小説などでは光秀の忠臣として描かれ、本能寺の変でも積極的に賛意を示したとされることが多いが、実際は反対したといわれている。理由は光秀が後世に不忠不義の臣として残ること、信長を討てても他の諸大名がその方法から支持しないことを見抜いていたためとされる。
- 稲葉氏から明智氏に鞍替えしたとき、一鉄は信長に対して利三の帰参を求め、信長も利三に稲葉氏への帰参を促した。しかし光秀が「人がこだわるほどの良臣を蓄えなくては上様(信長)のもとで大功を挙げられませぬ」と述べて拒絶したとされている。