徳川家光
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長9年7月17日(1604年8月12日) | |||
死没 | 慶安4年4月20日(1651年6月8日) | |||
別名 | 竹千代(幼名) | |||
諡号 | 大猷院 | |||
戒名 | 大猷院殿贈正一位大相国公 | |||
官位 | 正三位、従二位、権大納言、 右近衛大将、右馬寮御監、 正二位、内大臣、征夷大将軍、 従一位、左大臣、左近衛大将、 贈正一位太政大臣 |
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氏族 | 徳川氏 | |||
父母 | 父:徳川秀忠、母:崇源院 | |||
妻 | 正室:鷹司孝子(鷹司信房娘) 側室:自証院、宝樹院、順性院、 桂昌院、定光院、永光院、芳心院、 養春院 |
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兄弟 | 千姫、子々姫、勝姫、長丸、初姫、家光、 忠長、和子(幼名松姫、後水尾天皇室)、 保科正之 |
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子 | 千代姫、家綱、亀松、綱重、綱吉、鶴松 |
徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第三代将軍(在職1623年 - 1651年)。二代将軍秀忠の次男。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にもあたる於江与。乳母は春日局(福)。乳兄弟は稲葉正勝、稲葉正吉。
徳川十五代将軍のうち、正室の所生は、家康・家光・慶喜の三名のみである。(御台所=将軍正室が生んだ将軍は家光のみ)
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 誕生から将軍就任まで
慶長9年(1604年)7月17日、江戸城に生まれる。徳川家の世継であった父秀忠には慶長6年に誕生した長丸という男子がいたが、既に早世していたため世子として扱われ、祖父家康と同じ幼名竹千代を与えられた。誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、のちの春日局)が乳母となり、稲葉正勝、松平信綱らの小姓が付けられる。
征夷大将軍であった家康は駿府へ隠居して大御所となり、秀忠は慶長10年(1605年)に将軍職を継承する。幼少時の家光は病弱で、吃音(きつおん)があり容姿も美麗とは言えなかったと言われる。慶長11年(1606年)に弟の国松(後の忠長)が誕生する。家光と忠長の間には世継争いがあったとも言われ、『武野燭談』に拠れば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代廃嫡の危機を感じた福は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父の家康が嫡庶の序を明確にし、家光の世継決定が確定したとされる。これらは家光死後に成立した巷説であるが、同時代史料の検討から、家光の世継決定は元和年間であると考えられている。
元和2年(1616年)5月には、竹千代の守役として酒井忠利、内藤清次、青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、9月には60数名の少年が小姓として任命され、家光の年寄衆・家臣団となる。元和3年には西の丸へ移り、元和4年には朝廷の勅使を迎えており、公式の場への出席が見られる。元和2年(1616年)の家康が死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)に済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官する。「家光」の名乗りは崇伝の選定で、当初は「家忠」とされたが、花山院祖の名乗りであったことから、「家光」が選ばれた。
元和9年(1623年)には死去した清次の穴埋めとして酒井忠世、酒井忠勝が年寄として付けられる。同年6月には父秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下を受け、正二位内大臣となる。後水尾天皇や入内した妹和子とも対面している。江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸に隠居し、家光は本丸へ移る。家光の結婚相手としては黒田長政の娘との噂もあったが、元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下り、同年12月には正式に輿入れする。
[編集] 家光の治世
秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権は掌握し続け、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治のもとに置かれた。寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条行幸のために上洛するが、将軍家光に対して大御所秀忠は伊達政宗・佐竹義宣ら多くの大名、旗本らを従えての上洛であった。家光は二条城において後水尾天皇に拝謁し、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣に昇格した。
寛永9年(1632年)1月に秀忠が死去すると二元政治は解消され、将軍から公方として親政を始める。旗本を中心とする直轄軍の再編に着手し、同年5月には外様系大名を招集し、肥後熊本藩主加藤忠広の改易を命じている。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。諸士法度の制定。寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂では、大名に参勤交代を義務づける規定を加える。対外的には長崎貿易の利益独占目的から、貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、寛永14年(1637年)の島原の乱を経て寛永18年(1641年)までに鎖国体制を完成させた。これらの、家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(のちの将軍家綱)が生まれる。
寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉は起こるが、幕府の支配体制が揺らぐことはなく、正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、田畑永代売買禁止令を発布した(かつては慶安御触書も発布されたといわれていたが、現在は偽文書である可能性が有力となっている)。慶安3年(1650年)には病気から諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去する。享年48歳。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死している。
遺骸は遺言により東叡寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もあったが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営される。
[編集] 官歴
- ※日付=旧暦
- 元和6年(1620年)1月5日、正三位に叙す。9月7日、従二位に昇叙し、権大納言に任官。元服し、家光と名乗る。
- 元和9年(1623年)3月5日、右近衛大将・右馬寮御監兼任。7月27日、正二位に昇叙し、内大臣に転任。併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
- 寛永3年(1626年)8月19日、従一位に昇叙し、左大臣に転任。左近衛大将を兼任。
- 寛永11年(1634年)7月11日、太政大臣転任を固辞。
- 慶安4年(1651年)4月20日、薨去。贈正一位太政大臣。
[編集] 人物・評価
同時代では、大久保忠教『三河物語』において、少年時代の家光は内気であるが、家康の祖父松平清康に通じると好意的評価をしている。
東照大権現として祀られた祖父の家康に対しては敬神していたといわれ、寛永13年(1636年)に東照宮を造営すると、日光社参を生涯で10回と頻繁に行っている。春日局筆と伝わる「東照大権現祝詞」には、病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復した、以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする逸話が伝わる。また、家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることや、世継決定における家康の裁断、家光自身も家康の恩徳を記す文書を残し、狩野探幽に家康の像を描かせていることなどから、祖父家康の恩を意識していたと考えられている。
当時の男性の常として男色を極めて好み、とりわけ若い時分には女性を一切近づけなかった。中年を過ぎても世嗣を儲けなかったため、世継ぎのことを心配した春日局が家光好みの女中を召し寄せたという。家光の衆道愛好と大奥の創設とは特に関係はない。
家光は幕藩体制の完成者として高く評価される一方で、日光東照宮の建設などに家康以来の蓄積を使い、幕府財政窮乏の端緒を作ったとも言われる。鎖国政策に関しては宣教師を通じた欧州各国の内政干渉と植民地化を予防し、日本の独立主権を保持することが本来の目的とされる。また、朝鮮通信使が、将軍職就任祝賀の時のみならず跡継ぎ徳川家綱誕生祝賀や天下泰平祝賀のときにも来日している。
[編集] 一族
- 鷹司孝子(本理院):正室
- お振の方(自証院):側室
- お楽の方(宝樹院):側室
- 長男・徳川家綱(4代将軍)
- お夏の方(順性院):側室
- 三男・徳川綱重(甲府藩主)
- お玉の方(桂昌院):側室
- 四男・徳川綱吉(5代将軍)
- お里佐の方(定光院):側室
- 五男・鶴松(早世)
- お万の方(永光院):
- お琴の方(芳心院):
- おまさの方(養春院) 成瀬氏:側室
- 次男・亀松(早世)
- 養子
- 徳川家宣(6代将軍):孫
- 松平清武(館林藩主):孫
- 徳川家継(7代将軍):曾孫
- 鷹司信子(綱吉正室):嫁
- 瑞春院(綱吉側室):嫁
- 鶴姫(徳川綱教正室):孫
- 徳川徳松(館林藩主):孫
[編集] 参考文献
- 山本博文『寛永時代』(吉川弘文館日本歴史叢書、1989年、1996年新装版) ISBN 4642066373
- 藤井譲治『徳川家光』(吉川弘文館人物叢書、1997年) ISBN 4642052062
[編集] 徳川家光を題材とした作品
- 山岡荘八『徳川家光』1~4(講談社山岡荘八歴史文庫、1987年)
- 根岸明生『三代将軍徳川家光と皇女和の宮』(日本図書刊行会、1997年) ISBN 489039379X
- 羽生道英『徳川家光 英明・武勇の三代将軍』(PHP文庫、1999年) ISBN 456957338X