暗黒舞踏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
暗黒舞踏(あんこくぶとう)は、現代舞踊(コンテンポラリー・ダンス)の様式で、前衛芸術の一つ。
目次 |
[編集] 起源
名前の由来は土方巽が1961年に「暗黒舞踏派」として活動を始めた(その直前から暗黒舞踏と自称していた)ことによる。翌1962年からは、グループ音楽、フィルム・アンデパンダン、ハイレッド・センターなど他の前衛グループとのコラボレーションもさかんで、音楽や美術作品、映画の撮影者までも含めて暗黒舞踏というスタイルを取った。1966年7月に「暗黒舞踏派解散公演」を行い、暗黒舞踏派は解散した。
しかし土方一派の舞踊活動自体は1966年以降も途切れることなく続いた。むしろ暗黒舞踏の名が一般に知られるようになったのは、1980年代に入ってからであり、土方の死後も発展を続けている。 現在は暗黒舞踏ではなく「舞踏」と呼ぶのが一般的である。
[編集] 概要
暗黒舞踏の成立に大きな影響を与えたものの一つにドイツの新舞踏「ノイエ・タンツ」がある。マリー・ウィグマンの『マリー・ウィグマン舞踊学校』に留学した江口隆哉、宮操子夫妻が帰国後に『江口・宮舞踊研究』を設立し、そこに入所したのが大野一雄である。西欧的な技術偏重主義に反発し、やがて独立。ピルエットや跳躍などのテクニックにより天上界を志向するクラシックバレエなどとは異なり、床や地面へのこだわり、蟹股、低く曲げた腰などによって下界を志向するダンスを始め、それに強い影響を受けた土方巽がそれを「暗黒舞踏」として完成させた。また、若き日の土方巽や大野一雄はダダイストの許に出入りしていたといわれ、暗黒舞踏の成立にもその影響が見られる。
この舞踊界への「反逆」ともいえる試みは、大変な議論を呼んだ。加藤郁乎、澁澤龍彦、瀧口修造、埴谷雄高、三島由紀夫などの作家は暗黒舞踏に魅了され、土方とともに舞台にまであがるほどだったが、正統的な舞踊界からは異端視・蔑視され、大半の庶民にとっては「剃髪、白塗り、裸体、野蛮、60年代日本の突然変異ダンス、テクニックのない素人の情念の踊り」と思われるだけの存在だった。
近年、日本のBUTOHとして西欧で評価が高まっている。
[編集] 暗黒舞踏の衣装
一般に剃髪、白塗りのイメージが強い。「ツン」と呼ばれるビキニ状の衣装で局部を隠し、裸体の上から全身白塗りする事が多いが、白塗りは必須ではない。また必ずしも髪を剃る必要もない。極端な話、スーツにネクタイ、七三分けのいでたちでも舞踏として成立しうる。大事なのは「舞踏の哲学に則っているかどうか」である。
[編集] 暗黒舞踏の思想・哲学
舞踏の思想は、蟹股、短足といった日本人の身体性へのこだわり、神楽、能、歌舞伎などの伝統芸能や土着性への回帰、中心と周辺の視座による西欧近代の超克など様々な切り口で語られるため、簡便に語るのは困難である。
舞踊界に与えた影響としては、ダンスの定義を拡大しダンスを単なる「動きの芸術」ではなく「肉体の質感の提示」とし、カウントによる振り付けではなく、言葉とイマジネーションによって動きを引き出す(舞踏譜)など、斬新な方法論を開発した点が上げられる。
たとえば「自分の胎内でカレイが泳いでいる」「もしあなたの頭が十倍の大きさだったら」「“郷愁”をまっすぐ歩くことだけで表現する」「花火の家族の一家団欒」などといった、禅問答的ともいえる言葉を手がかりに自分なりの方法論で踊りを立ち上げるのが舞踏の作舞法である。当然、バレエや体操競技のような既成の方法論やテクニックは有効ではないから、手探りの状態で動きをつくっていくことになる(ただし土方が作舞した作品に関しては、言葉に対応する動きが蓄積されており、「舞踏譜」と共にレパートリー化されている)。
言葉だけではなく絵画やオブジェなどから着想を得た作品もある。土方は特にフランシス・ベーコンの絵画から着想を得ることを好んだという。
いずれにせよ、土方のメソッドは「イマジネーションと身体を結びつける回路の開発」とでも呼ぶべきものであった。
その核心部分の多くは、現在のコンテンポラリーダンスに引き継がれている。
[編集] 暗黒舞踏の思想を表す言葉
「舞踏とは命がけで突っ立つ死体」(土方巽)
[編集] 暗黒舞踏の展開
●クラッシック舞踏(第一世代)
土方巽、大駱駝艦、白桃房、和栗幸雄など
叛乱体~衰弱体、大仰なスペクタクル。土方巽直系の様式美。
●モダン舞踏(第二世代)
山海塾、白虎社など
第一世代から日本的な要素を払拭。「日本人の体」「エキゾチズム」という縛りから抜け出し、広範な普遍性を獲得。
●ポストモダン舞踏(第三世代)
勅使河原三郎、山田せつ子、伊藤キムなど
舞踏を意識している、あるいは舞踏出身であるが、舞踏という枠から逸脱。コンテンポラリーダンスの一部として認められる。
●ポスト舞踏(第四世代)
SALVANILA、鈴木ユキオ、枇杷系、白井剛、大橋可也など
舞踏を消化吸収したコンテンポラリーダンサー。第三世代との切り分けは難しいが、もはや「舞踏家」として語ることは困難な存在。
*大野一雄、笠井叡、田中泯など土方巽と係わり合いながらも、上にあげた分類の枠外で活躍する舞踏家も存在する。また岩名雅紀のように独学で踊り続ける者もいる。
[編集] 外部リンク
[編集] 日本語
- 大野一雄舞踏研究所
- 土方巽記念アスベスト館
- 小林嵯峨 + NOSURI
- 天使館公式ホームページ
- 麿赤兒率いる大駱駝艦天賦典式公式サイト
- 山海塾
- Min Tanaka 田中泯 WebSite
- 玉野黄市 非公式ウェブサイト
- 友惠しづねと白桃房
- 舞踏舎天鷄
- 室伏鴻公式サイト
- 金沢舞踏館
- 和栗由紀夫 好善社
- 大豆鼓ファームだよ!
- sal vanilla web
- とりふね舞踏舎
- 暗黒舞踏「偶成天」森田一踏・竹内実花
[編集] 外国語
- SU-EN, "SU-EN Butoh Company.net"
- Tanztheater Wuppertal - Pina Bausch
- Don McLeod, "History of Butoh"
- GooSayTen (Itto Morita & Mika Takeuchi)
- Kazuo Ohno, "Kazuo Ohno Dance Studio"
この「暗黒舞踏」は、舞台芸術に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(Portal:舞台芸術) |
カテゴリ: ダンス | 舞台芸術 | 舞台芸術関連のスタブ