澁澤龍彦
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澁澤 龍彥(彥=「偐」の旁部分。以下、彦で代用)(しぶさわ たつひこ、本名、龍雄(たつお)、1928年(昭和3年)5月8日 - 1987年(昭和62年)8月5日)は、日本の小説家、仏文学者、評論家。
別名に澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.など。晩年の号に呑珠庵、無聲道人がある。澁澤自身は、自らの名前を「竜」の字で代用されることを嫌い、「私は署名をするときにも、竜彦などとは間違っても書かない。(略)これはタツではなくて、尻尾の生えたカメみたいではないか」(『記憶の遠近法』所収「ドラゴン雑感」)と発言していた。
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[編集] 経歴
東京市芝区車町(現・東京都港区高輪)に澁澤武 節子の子として生まれ、埼玉の川越、東京市滝野川区中里(現在の東京都北区中里)に育つ。父の武は銀行員。母の節子は実業家で政治家の磯部保次長女。渋沢栄一やその孫の渋沢敬三と遠戚にあたるが、龍彦の家が澁澤家の本流(東の家)で、栄一や敬三の家は支流(中の家)である。なお澁澤家は、指揮者尾高尚忠や競馬評論家大川慶次郎とも親類に当たる。龍彦の幼少時、渋沢栄一はまだ存命で同じ滝野川に住んでいた。龍彦は、赤子のとき栄一翁に抱かれて小便を洩らしたことがあると伝えられている。
旧制の東京府立五中(現・東京都立小石川高等学校)から、1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に進む。理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。ドイツ語が不得手だったためもあり、敗戦に伴って文甲(文系英語クラス)に転じる(いわゆるポツダム文科)。旧制浦和高校の文丙(文系フランス語クラス)は戦時中に廃止されていたが、澁澤の一級下から復活したため、一級下の講義に潜り込み、平岡昇からフランス語の手ほどきを受けた。このころの友人に出口裕弘や野沢協がいる。また、アテネ・フランセに通ってフランス語を習得。みるみる上級クラスに上がっていったという。このころ、神田の古書店街でダダイスムやシュルレアリスム関係の仏語の原書を渉猟し、アンドレ・ブルトンやジャン・コクトーに熱中。
本来、旧制高校卒業生はほぼ無試験で帝国大学に進める立場だったが、新しい学制が施行されたためにその特権的立場を喪失し、このため澁澤は東大仏文受験に失敗して、いわゆる白線浪人となった。浪人中のアルバイトで「モダン日本」誌(新太陽社)の編集に携わり、吉行淳之介の知遇を得た。久生十蘭の原稿を取りに行った事もある。このころ、小説の習作を吉行に読んでもらったことがあるが、それは吉行によるとサディズムの傾向があらわれた作品だったとのことである。
1950年、2年の浪人生活を経て東京大学文学部に入学。この時のことを、1974年2月の「週刊朝日」の取材には「入学試験なんてインチキなものだと信用していなかったが、やはり三度目に入ったときはうれしかった」と答えている。若干の社会人経験を積んだためもあり、澁澤当人は自筆年譜の中で「周囲の学生が秀才馬鹿に見え、研究室の雰囲気にも馴染めなかった」と語ったが、当時の友人の証言によると、澁澤はこのころ研究室には頻繁に出入りしていたともいう。1953年仏文科を卒業。卒論は『サドの現代性』。サドをテーマにした論文は自分が最初で最後かもしれないと語っている。当時は、サドはエロ作家などといった評価が少なくなく、学者もサド研究に好意的ではなかった。それ故アカデミズムから疎外される。澁澤は卒論を提出した後に、大学から取り戻したという。このころ、新聞社や出版社の就職試験に失敗。
その後、東京大学の修士課程に進んだが肺結核を病んで就職への道が絶たれる。1954年、白水社から最初の訳書『大跨びらき』(ジャン・コクトー著)を上梓、初めて澁澤龍彦という筆名を使う。この訳業には、すでに大学入学前、浪人時代に着手していたものである。
この頃、父が急死したため経済的に逼迫し、岩波書店で社外校正のアルバイトを始めると共に、のちの妻矢川澄子と知り合った。また1955年には友人の出口裕弘や野澤協、小笠原豊樹たちと同人誌「ジャンル」を結成、『撲滅の賦』『エピクロスの肋骨』などの小説を書いた。公式には、この『撲滅の賦』が小説家としての澁澤の処女作だったとされている。このころ三浦市の市長選に絡んで個人的に日本共産党候補を応援し、対立候補を批判する詩を書いてビラ撒きを手伝ったが、やがて一切の政治的発言を自らに禁ずるようになった。
1968年、矢川澄子と離婚、70年、龍子と結婚したが、澄子に妊娠中絶を繰り返させていたことがその死後明らかにされた。またその年譜から澄子が抹消されていたことが、澄子の自殺の引き金となったのではないかという推測もある。
マルキ・ド・サドを日本に紹介した人物とされているが、実際には澁澤以前にサドの翻訳、式場隆三郎による評伝の翻訳、紹介があった。澁澤は1959年にサドの『悪徳の栄え・続』を現代思潮社から翻訳出版したところ、1960年4月、同書が性表現を理由に発禁処分を受ける。このことに関して、三島由紀夫から1960年5月16日付で「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」との葉書を貰う。1961年、猥褻文書販売および同所持の容疑で現代思潮社社長石井恭二と共に在宅起訴され、以後九年間に渡り所謂サド裁判の被告人となる。このときの特別弁護人に埴谷雄高、遠藤周作、白井健三郎、弁護側証人として大岡昇平、吉本隆明、大江健三郎、奥野健男、栗田勇、森本和夫など。澁澤はこの裁判について「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやる」との方針を立てていたため最初から真剣に争う気がなく、「寝坊した」と称して裁判に遅刻したことまであったため、弁護側から怒りを買うことがあった。1962年に東京地裁で無罪判決が出たが、検事控訴で高裁から最高裁まで争った末、1969年に澁澤側の有罪が確定し、7万円の罰金刑を受けた。このとき澁澤はマスコミの取材に答えて「たった7万円、人を馬鹿にしてますよ。3年くらいは(懲役刑を)食うと思ってたんだ」「7万円くらいだったら、何回だってまた出しますよ」と語った。
20代の終盤、三島由紀夫の紹介で暗黒舞踏の創始者である、土方巽と出会い、その舞踏表現に強い衝撃を受けたと言う。土方の舞台公演には必ず駆けつけるなど長きに渡る親交が続き、1986年に土方が急逝した際には葬儀委員長を務める事となる。
人間精神や文明の暗黒面に光を当てたエッセイが世間に与えた影響は大きい。小説家としても独自の世界を開く。エロチシズムを追究。また、沼正三のSM小説『家畜人ヤプー』を絶賛した事でも知られている。
難解だといわれるバタイユ『エロティシズム』の邦訳の中でも、澁澤訳は読みやすいと定評がある。(『ジョルジュ・バタイユ著作集 第7巻』所収、二見書房)
三島由紀夫と親交があり、三島の戯曲『サド侯爵夫人』は、澁澤の『サド侯爵の生涯』に影響を受けて書いたものとされているが、式場隆三郎の『サド侯爵夫人』を読んでいたことは間違いない。
教員としての経験は、短期間美学校で教えた以外に一切なかったが、澁澤自身に就職の意志がなかったわけではなく、東洋大学で講師を募集していることを知るや、親友出口裕弘に東洋大への口利きを依頼したことがある。
1983年頃、牝の兎を飼い始める。名前は「ウチャ」。
澁澤は幼い頃から喉が弱く、知人の間では特徴的なかすれ声で知られていたが、近所の医師の誤診から下咽頭癌の発見が遅れたため、1986年に声帯を切除し、声を失った。入院生活のさなかにも『高丘親王航海記』を書き継ぐと共に、次作『玉蟲物語』を構想していたが、1987年8月、病床で読書中に頚動脈瘤が破裂したため即死した。
[編集] 家族 親族
父・澁澤武(銀行員)
[編集] 作品リスト
[編集] 主な作品
- 1981年小説集『唐草物語』第9回泉鏡花文学賞
- 1987年『高丘親王航海記』読売文学賞(遺作)
[編集] 全集
- 澁澤龍彦集成(全7巻)
- ビブリオテカ澁澤龍彦(全6巻)
- 新編ビブリオテカ澁澤龍彦(全10巻)
- 澁澤龍彦全集(全22巻・別巻2)
- 澁澤龍彦翻訳全集(全15巻・別巻1)
[編集] コレクション
- ヨーロッパの乳房
- 東西不思議物語
- 世界悪女物語
- 妖人奇人館
- 異端の肖像
- 幻想の肖像
- 黒魔術の手帖
- 毒薬の手帖
- 秘密結社の手帖
- エロスの解剖
- スクリーンの夢魔
- 女のエピソード
[編集] その他作品
- 夢の博物館
- 機械仕掛のエロス
- 思考の紋章学
- マルジナリア
- 私のプリニウス
- 華やかな食物誌
- 記憶の遠近法
- エピクロスの肋骨
- 幻想博物誌
- 裸婦の中の裸婦
- 少女コレクション序説
- エロス的人間
- アンドロギュヌスの神話
- エロティシズム
- フローラ逍遙
- ふらんす怪談
- 滞欧日記
- 狐のだんぶくろ
- 胡桃の中の世界
- 都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト
- 高丘親王航海記
- うつろ舟
- ねむり姫
- ドラコニア綺譚集
- 幻想の画廊から
- 悪魔の中世
- 世界幻想名作集
[編集] 澁澤をモデルにした小説
- 三島由紀夫『暁の寺』の、「性の千年王国」を夢見るドイツ文学者・今西康は澁澤をモデルにしている
- 高橋たか子『誘惑者』の、悪魔学の権威・松澤龍介も澁澤をモデルにしている
- 篠田真由美『龍の黙示録』シリーズの主人公、鎌倉在住の著述家にして不老不死の吸血鬼である龍緋比古は、篠田によれば「ビジュアルイメージは若い頃の澁澤龍彦です、ただしサングラスつきで」とのことで、澁澤がモデルである
[編集] 澁澤をモデルにした漫画
[編集] 関連事項
- 四谷シモン
- 愛国百人一首