木立裕之
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木立裕之 (きだち ひろゆき、1972年2月6日-)は、千葉県市川市出身の空手家で、国際空手道連盟極真会館本部直轄浅草道場所属。 身体はけっして大きくないが技術が非常に高く多彩な技を持つ。相手の動きを読みながらの冷静な[捌き]と威力のある[突き]と[膝蹴り]には定評がある。空手暦は18年(入門は1988年)。初めは千葉県北支部市川道場であった。他流派の空手の経験も3年ある。会社員を続けながら空手をしていたが、空手に専念するために退職。現在は空手指導員。尊敬する人物は神尾伸幸。好きな食べ物はヨーグルト トムヤンクン。非常に謙虚な人柄であり、後輩からも慕われているということである。
[編集] 主な戦歴
- 2003年第8回全世界空手道選手権大会 第8位
- 2000年第32回全日本空手道選手権大会 第4位
- 2004年第36回全日本空手道選手権大会 第8位
- 1997年第1回全世界ウェイト制空手道選手権大会 中量級 第4位
- 2001年第2回全世界ウェイト制空手道選手権大会 中量級 準優勝
- 2005年第3回全世界ウェイト制空手道選手権大会 中量級 第3位
- 1996年第13回全日本ウェイト制空手道選手権大会 中量級 第3位
- 1998年第15回全日本ウェイト制空手道選手権大会 軽量級 優勝
- 1999年第16回全日本ウェイト制空手道選手権大会 中量級 優勝
- 2000年第17回全日本ウェイト制空手道選手権大会 中量級 優勝
- 2005年第22回全日本ウェイト制空手道選手権大会 軽重量級 優勝
第36回全日本空手道選手権大会について 木立裕之は非常に技術が高く、間合いのコントロールも巧みであるが、この大会の対ミハイル=コズロフ戦ではその戦い方が松井章圭館長の不興をかったという話が一部でながれている。この試合では木立は「相手にわざと顔面を打たせる」という戦い方をしたのではないかというのである。松井が公式な場でそう述べているわけではないのでその真偽はわからない。しかし、どちらにしろ、公式ルールの中で行われた試合展開であり戦法であるので、批判には慎重であるべきだと思われる。
第22回全日本ウェイト制空手道選手権大会について この大会の軽重量級では、極真会館の全国大会史上初めて、他団体[正道会館]選手が決勝に進出した。決勝進出の瞬間、会場全体の観客は一気に青ざめ、静かになったという。そして、決勝戦で木立裕之が勝利した時はわれんばかりの拍手が起こり、木立は「極真の救世主」とまで称された。 この事象の背景には、格闘技における極真会館の地位低下がある。いわゆる極真大分裂やK-1やプライド誕生、総合格闘技ブーム以降、松井章圭館長の極真会館は一般的には衰退しているとさえいえる。全日本空手道選手権大会の入場者数も減少している。また、現在は正道会館の選手はテレビなどメディアの露出が多い。それに比べ極真会館の選手で、現役で活躍しており一般の人にも認知度が高いのはグラウベ=フェイトーザぐらいである。こういった極真会館の相対的地位低下の中で、他流派による決勝進出が起きたのであり、決勝進出が極真会館の地位低下を象徴的にあらわしていると感じた観客もいたのではないか。 (ただし、松井館長は他流派の躍進を高く評価している。また、今までの大会は極真選手に有利な判定が多かったのではないかという説もある) 決勝戦では、木立は左下突きから入り、相手の攻撃を捌いての下段で崩すといった展開であった。途中、相手選手の上段膝蹴りが木立のアゴを捉えるなど、危うい場面もあったが、基本的には木立が有利に試合を進めた。終盤では相手のラッシュがやんだあと、木立がラッシュを繰り広げるなど、見所の多い試合であったと言われる。
[編集] 逸話
木立裕之は社員時代、トレーニングも兼ねて毎日会社までの片道20キロを往復数時間かけて走って通っていた。